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龍馬くじら飯 episode6

 第6話 長州 1866
 
 犬猿の仲だった薩摩と長州を仲立ちした罪で、京寺田屋に逗留していた坂本龍馬が伏見奉行所の捕り方に襲撃されたのは、慶応二年(1866)一月二四日未明のこと。重傷を負った龍馬を介護した寺田屋の女中・お龍ともども薩摩に匿われたところで、英気を戻した龍馬が大人しくしている筈もない。
「儂とお龍は夫婦になるがよ。西洋では新婚旅行(ハニームーン)いうものがあるにかあらん。儂らも療養を兼ねて旅行に行こう」
 薩摩の役人も振り回されっぱなし。小松帯刀の許可を得て、晴れて龍馬たちは高千穂へと新婚旅行の旅。帰ってくれば大人しくなるだろうという、周囲の期待を、龍馬はあっさりと翻す。
 じきに第二次長州戦争がはじまる。
 薩摩藩は静観という立場を表明したが、龍馬は操練技術を頼りに参戦を決めた。
「なんか、馬鹿らしかで、好きにさせちょけ」
 小松帯刀も、西郷吉之助も、龍馬の好きにさせた。長州が負けることは、薩摩にとっても都合が悪い。龍馬が薩摩の居候であることは、考えようにもよるが、支援はしないけど何とかしてくれという、内意でもあった。
「やあ、坂本君」
 軍事総督の高杉晋作は、戦場に着流しという風流な出で立ちだ。三味線で端唄まで奏でるのだが、素人はだし。これが長州人の戦意につながっているのだから、まさに、でたらめな藩の最骨頂といえよう。
「痩せたがかな、高杉さん」
「労咳らしいよ」
 労咳は、今日でいう肺結核だが、この時代はその医療知識がない。漢字のとおり働き過ぎた心労によるものという解釈で受け止められていたのだ。恋患いなどと同等に理化されるほど大らかだが、ひとつ云えることは、ほぼ死病と断定できるものだった。
「まだまだ高杉さんの力が必要ぞ」
「もう、飽きた」
 これからは面白おかしく風流に生きて、やがて野辺に野垂死ぬのだ。そのために攻めてきた幕府の軍勢を蹴散らし追い払う。それだけのための戦さだと、高杉は笑った。
 第二次長州戦争。
 この戦さは、長州藩が奇跡を示した。数の上で圧倒的な大差のある幕府軍を、長州一藩にて破ったのである。薩摩不戦や武器の横流しもあるが、高杉晋作は身を挺して、この大将となら負けぬ、ともに死ねるという、煌びやかな神輿を貫いた。こういう役割は、桂小五郎や山縣狂助でも果たし得ぬものだった。
「大したものだな」
 龍馬は海戦の支援をしたが、長州の若者がすべて高杉信仰に傾く熱量に圧倒された。ここには士農工商を越えた、高杉のためだけに喜んで戦う純粋さがあった。この身分を越えた奇兵隊の総督として、高杉晋作は十二分に役割を演じた。
「勝ったら宴じゃ。存分に呑んで食うて、勝ったことを誇るんじゃ。なあ、我が友の坂本君も皆が手にする武器を運んだ功労者じゃ。大いに笑い合い給え」
 奇兵隊の若者は高杉を称え、坂本龍馬を称えた。こういう煽りは苦手だと笑う龍馬に、高杉晋作は真顔で尋ねる。
「鯨、食おう」
 長州の鯨南蛮煮は、高杉自慢の郷土飯だ。
「大きな物を食べてええ年にしようちゅう願いから、長州では大晦日や節分やら、節目のときに食べる風習があるんじゃ。今日、幕府勢ちゅう大きな鯨を倒した。これ以外に、坂本君と食いたいものはないのぉ」
 高杉晋作の云うことは、実にあっけらかんとして清々とした、潔い軽やかな響きがあった。それが一番、この場にふさわしいハレの飯だと、龍馬は思った。
「いこりゃ、鯨の赤身だけでのう、皮の部分も使われちょるのか。それで味噌煮込み。身体も温まるし、滋養にもええな」
「いまの僕にゃあ、一日でも長う人前に元気な様をさらけ出す必要があるけぇな」
 高杉晋作の残された時間は少ない。本人の自覚だ。養生するよりも、面白おかしく、我慢すらしないで、ある日パッと世を去るのが望みなのだとも口にした。龍馬は、それを窘める言葉を知らなかった。
 高杉がグッと酒を干して、端唄を披露すると、奇兵隊の連中は大喝采だ。その喧騒の中で、高杉は悪戯な目で龍馬を見る。
「君が何を考えちょるか、僕にゃあ見通せるんじゃ。当ててみようか」
「唐突に、なんじゃあ」
「大政奉還」
 龍馬の表情が強張った。
 長州の意図はつい今さっき、倒幕から討幕へと転換を図ったばかりだ。他ならぬ桂小五郎や村田蔵六の声であり、征伐に来た幕府の大軍に勝利した今こそのもの。薩摩もこれには同心する筈である。
 大政奉還は、政を天皇にお返しするというもので、もしも徳川将軍がこれをやったならば、長州は振り上げた拳を降ろす場に困ってしまう。龍馬がこの場で口にしたならば、たちまち袋叩きに遭い、簀巻きにされて海に捨てられることは間違いない。
「高杉さん、冗談は困るぜよ」
「僕も大政奉還に賛成じゃ」
「え?」
「無駄に戦さを好むさあ、青臭い書生が机上で思いついたことを好き勝手に口にして、それに引き摺られる無辜の民の暮らしを顧みることのない愚策。松陰先生は狂えと塾生に教えたが、そりゃあ自己に向けた公案じゃないかと、近頃の僕はそう思うんじゃ」
 大したものだ。高杉晋作は、そういう身になったからこそ、防衛には果敢になれと訴え、それ以上の戦さを望まぬと明言しているのだ。勿論、この場でもっとも相応しくない立場の者が口にした言葉でもある。
「なら、高杉さんが長生きせんと、長州の勢いが外に溢れ出てしまうなあ」
「その通りじゃ。食おう、坂本君。もっと、鯨を食いたまえ」
 完全に戦さを終息し、龍馬たちも長州を発った。見送る高杉晋作は、その夜、大量の血を吐いた。

 

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