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宗良親王の資料

さてさて。
南信州新聞では「満洲-お国を何百里-」の特別編もひと心地、通常連載に戻ります。
この間に、次回作をと足掻いておりました。
5月に天候で断念した大鹿村を含めて、今回は超気合で、遠江の井伊谷宮まで足を延ばした。南信州縦断して浜松までとは、我ながら思い切ったことをやらかしたものだ。はやく三遠南信自動車道が開通することを心待ちにします。

順番は別だけど、宗良親王の生涯で大きな足跡となるのが、ここ井伊谷宮。

となりが「おんな城主直虎」の舞台となったお寺さん。

だけど、今回は浮気なしで、親王取材に特化する。
とはいっても、物的ななにかを探すことは不可能。地形的な環境を得たり、少しでも刊行物を探る。

宗良親王が高師直らに攻められ、籠城したのが三岳山城。宮からも山容は一望できる。新東名高速道路はトンネルでこの下を通過しています。

井伊家の一族が南朝に加担し親王を物心共に支えた背景は、やはり三河から足利家の勢いが増したことや、足利一門の今川氏などへの脅威に抗う純粋な選択肢だったと思います。

1339(暦応2)年北朝が遠江に攻め込み、浜松の鴨江城、三ケ日の千頭峯城、などが攻め落とされ、1340(暦応3)年には三岳城も落城。宗良親王は大平城(おいだいらじょう:現在の浜北の大平)に逃れたものの、ここも落城し、親王は井伊道政に助けられ、駿河へ落ち延び、さらに越後、信濃、吉野を転々と過ごした後、信濃大河原(現在の長野県大鹿村)の山奥で30余年、ひっそりと過ごした。

後醍醐天皇の皇子で、いちばん長生きだったのは宗良親王だと思います。
したがって、父帝の個性に振り回されて生涯が波乱万丈にされてしまった最大の被害者とも云えるわけです。

面白いもので、親王の行動に大きな関連性を及ぼす人物がおります。

北条時行。長野県大鹿村には、親王と北条関連の足跡があるのですよ。

とにかく、資料はきちんと整理して読み解かなければ、次回作につながりません。しかし、専門的に時間の取れない身の上が、極めて歯痒い。

奥三河を突っ切って今回は南下してきた井伊谷宮。幾通りの険しき山道、親王の道のりがこの三遠南信に及んだかどうかは全く知られておりません。が、並の人なら遭難レベル。
南北朝時代の謎は、深くて面白い。