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もしも、武田勝頼がこの合戦を回避することに努めたなら

「御所車-知久太平記-(つむぎ書房)」でもハイライトのひとつとなる、長篠の戦い。幾つもの駆引きやり取りを積み重ねた結果、織田・徳川vs武田オールスターが、狭い湿地帯を囲んで対峙した。ここに至る前から、対峙を避けるチャンスは多分にあった。
戦さで決着をつけるのは、元来の武田戦術にあらず。
調略で内部の切り崩しを行ない、合戦という目に見える仕上げで、世間にアピールするというのが信玄兵法。損耗を避け、現地を取り込み内政懐柔で安心の担保を刻み込む。
勝頼は、それが出来なかった。

前哨戦で恐怖を刻み込ませて
「いつでも奪りに来るぞ」
と威圧をかけておくのが最適解と思う。
滅多に来ることがない信長に、まだ武田には劣る家康。長篠城は信を置ける相手を模索し、勝手に瓦解して内応するのは目に見えていた。

孫子曰わく、
地形には、通ずる者あり、挂[さまた]ぐる者あり、支[わか]るる者あり、隘[せま]き者あり、険なる者あり、遠き者あり。
我れ以て往くべく疲れ以て来たるべきは曰[すなわ]ち通ずるなり。通ずる形には、先ず高陽に居り、糧道を利して以て戦えば、則ち利あり。

信玄は孫子を理解し、解釈し、己の兵法に昇華した。察するに勝頼は、孫子を学んでいない。若しくは己を過信している。その傾向や態度は、NOVELDAYS掲載「光と闇の跫(あしおと)」にも描いている。
およそ孫子を学べば、長篠の戦いで演じた用兵を武田勝頼は自ずと選択せず退いては攻めを繰り返す消耗戦を長期にわたり演じたはず。
信玄の戦いは、戦う前から勝敗が決する。
歴史に観る長篠では、信長が王手をかけていた。武田は退くより他なき定石だった。これを強引に戦さとした。信玄に薫陶された名将たちが挙っていたからこそ、この戦さが延々8時間にも及ぶ規模になった。普通ならば、もっと早くに決着がつく。そして、一国の主にもなれる才ある将が、続々と戦場に散った。
「ただ、勝頼を逃がすためだけのために」
取り返しのつかぬ失態に気付き、追撃に怯えて戦場を逃れる勝頼。どうせ退くならば、温存したままの方が、のちのち有利なのだ。
事実、川中島はただ一度の偶発戦さを除けば局地戦に留めて、決戦などと信玄は粋がることはなかった。謙信は雌雄を決することに拘ったが、信玄は衝突を避けることに徹した。結果、上杉謙信はむざむざと川中島を武田統治下に取られた。
「強けりゃいいんだよ」
のダメな見本が、ここにあった。勝頼はそれを学ばず、上杉謙信と同じことを試みた。武将としての格が謙信に劣る勝頼が同じことを臨めば、壊滅は明白だと気付かされる。

顧みよう。
どうして、この場は撤退すべきかというと……。

① 兵力差で劣る
② 地の利に長けていたが鳶の巣山陥落で形成が変わる
③ 機動力の生かせぬ戦場
④ 敵陣が高低差を活かした城攻めと同等の存在である
⑤ 長篠城を短期で落とせず、逆に士気を高める失態を犯した

①~⑤までを深堀する。

①について、織田・徳川の兵力は3万8千人(織田3万、徳川8千)。
 武田勢は兵1万5千人。
 織田・徳川軍の兵力は、武田軍のおよそ2.5~3倍程度。
 
消耗戦は避けるのが得策。

②について、織田・徳川連合軍に対峙するため、高地に陣した勝頼は低地に
 動いた。これをみて、後方の鳶の巣山城を徳川勢が攻略。武田勢は正面と
 背後に敵を抱え、しかも高地から睨まれる格好となる。最も不利な陣形を
 自分から構築した。じっと動かねば背後は確保され、悠々と引き上げるこ
 とも可能だった。

③について、武田には騎馬隊など存在せず、仮に似たような機動戦術を用い
 ようにも設楽原は田圃。ぬかるんでいる。しかも季節は梅雨。身動きとれ
 ぬ場所へ兵を送り込むのは相当いかれている。

④について、織田信長の陣所は高低差を活かした丘のような台地。馬を防い
 だ柵と云われるものは、本当は城の濠(連吾川)を越えてくる敵を阻むも
 の。城攻めと同等の陣構えだった。堅固な城に見合う守備兵がいる場合は
 敵の3倍に相当する兵力をもってしても、力攻めでは落とせない。そし
 て、戦力差はもともと武田が3分の1ほど少ない。
 これだけで勝算は皆無である。

⑤について、織田・徳川連合軍が来る前に長篠城を陥落できなかったことが 
 失敗の原因。士気が下がり陥落寸前、もう一押しで落ちたのに、鳥居強右
 衛門を余計な場面で用いたから士気を高めて抵抗力を強くしてしまった。
 この策、誰が考えたのだ。馬鹿なことを。長篠さえ陥落すれば、織田・徳
 川は援軍にくる理由がなくなり会戦さえも回避できた。

この戦場に、知久頼氏の姿はあった。
郷里の下伊那勢の多くは岩村城にいたと考えられ、同士討ちはなかったものと信じたい。

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