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連続小説「88の謎」 

第三話 Cantabile

エリは口を真一文字に結んだまま、自分の爪を見つめていた。まだどこか違う、そう思ってネットの動画と見比べる。ネイルファイルを爪に当て、ゆっくり動かしてジェルネイルを落とし始める。少し悔しい気がするが仕方ない。理想を曲げる訳にはいかないのだ。

美への意識が強くなってきたのは中学の卒業を控えたあたりからだろうか。エリはどちらかと言えばキツネ顔で、奥二重の目と身長の高さから、当時は同性の後輩に人気があるキャラだった。タカラジェンヌというには到底及ばないが、文化祭の仮装イベントではプリンセスより男装を自ら選び、それを目当てにした多くの生徒や保護者が記念撮影をせがんできて長い行列を作ったものだ。

しかし、高校入学を前にしてその意識が変わる。エリが久々に街へ出た時に、スカウトから声を掛けられたのだ。何のことか分からず名刺だけを持ち帰り、母に見せたところ大手芸能事務所のスカウトだと判明し、大騒ぎしたことを覚えている。高校入学を控えていたこともあり、結局そのスカウトには連絡することはなかったが、女性としての自分に価値を見出す人がいたことにエリは衝撃を受けた。これが「女性らしくありたい」と思い始めたきっかけとなったのは間違いない。

以来、同世代のモデルが表紙のファッション雑誌を読み、メイクやヘアアレンジの動画を見ては、一般的な女子が通る王道を歩んでいった。そして今、エリはネイリストを目指し、研究を重ねる日々を過ごしている。もちろん簡単に一人前にはなれないし、まだ思うような仕上がりにならないことの方が多いものの、持ち前の明るい性格と快活なおしゃべり、あっけらかんとした笑い声がウケ、修行中のネイルサロンでのお客さんへ評判はすこぶる良かった。

その反面、「自分に足りないのは技術と経験」という課題をエリはしっかり認識している。ありきたりだが、自分がプロの道に進むためには、絶対に外せないものだ。だから毎日のように自分の爪を練習台にして、ジェルの乗せ方や広げ方、ネイルケアなどを毎日試していた。

ふと部屋の時計の針に目をやると、既に22時を指していた。

「ヤバっ」

つい声が出た。ウッドスティックとネイルブラシを急いでケースにしまうと、エリは慣れた手つきで携帯をホルダーにセットし、自分が映る角度を調節する。マイクとミキサーを繋いで、携帯の電池残量を確認した。
エリは1年前からライブ配信を行なっていた。まだ配信のコミュニティは数十人の規模で、リスナーと雑談を交わしたり、カラオケの延長線上のような歌を歌ったりしていた。ただエリの明るさと素直な歌声は徐々に男性に人気を博し、気がつけば配信だけでも生計を立てられるまでになっていたのだった。何気なく始めた配信が、気がつけば自分の生活の一部になるなんて...しばしばそう振り返ることがある。毎日のように自分の配信に来てくれるリスナーはもはや仲間というより家族に近い存在にも感じていた。

エリは配信開始のボタンを押した。この瞬間だけはまだ少し緊張する。果たして今日は何を話そうか...いや、そもそもいつも大したことを話してはいない。それでもなんとかここまでやってこれたのは、配信に来てくれるリスナー達の優しさのおかげだと思ってる。

「まあなんとかなるでしょ。」

配信開始予定から5分過ぎたところで、配信を始めた。机の上にしまい忘れた除光液のビンがあることに気づいたが、後で片付ければいいと携帯の画面に視線を戻した。そういえば、耳で溶けて流れ込む媚薬達を閉じ込めろ、なんて歌詞があった気がする。鼻歌で歌ってみる。うん私、絶好調。

そしてエリの配信は始まった。この配信のフィナーレがエリの人生を大きく動かすとは誰も知らずに...

第四話に続く

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