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連続小説「88の謎」 

第十話 Joybox

リナは気を取り直して配信部屋に移動した。たまにはすっぴん配信でもしてみるか。多分この時間ならまだ来るリスナーもいるかも...いや、なんなら誰も来なくてもいいや。
幾分矛盾した思考の中で、リナはピアノを斜めから少し見下ろす画角で、携帯をホルダーにセットした。早く誰かと話したい気分でもあったのは確かだった。そんな気持ちを沈めて、背筋を伸ばしピアノに向かった。肩甲骨ごと肩を回した後、右手の掌手を左手で掴み、ぐっと向こう側に向ける。左右の手を入れ替えてゆっくりストレッチを行い、大きく深呼吸をする。脳内に弾きたい曲のイメージを作る。両手は膝の上に軽く据えている。
大きく息を吸い、スーッと吐きだす。曲のイメージを脳内に整えて、両の手をそっと鍵盤の上に構える。再度息を吸い込むと、リナの指が柔らかく、滑らかに曇りのない鍵盤を走った。
奏でるのはルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンのピアノソナタ第23番、ヘ短調。通称「熱情」。リナが得意とするクラシックのひとつだ。配信ルームに19世紀初頭、ピアノソナタの名曲が響く。ドアを軽くノックし、冒頭はお互いを問いかけるような左右の細かい旋律が駆ける。左手の低音は有名なあの「運命」を彷彿させるようなノーツで、この後の嵐の予感を匂わせ始める。楽譜から鍵盤に視線を移したリナは、鮮やかにピアノで叫び始めた。
難聴を患い遺書を書くにまで至ったベートーヴェンの魂を引き継ぎたいと思った。音楽に全てを賭け、一見裕福でもあり不遇であった幼少期の彼の生き様は、時に自分に重なることがあった。宮廷歌手の父から厳しいスパルタ教育を受けて進んだ音楽の道。音楽に埋没し、音楽を愛し、音楽へ捧げた彼の想い。正にこの熱情という曲がそれを示すのに相応しいと思った。未来に失望し、それでも運命に抗った彼の地図は果たしてどんな色だったのか?
そして、リナのピアノの音色(おんしょく)がその未知の地図に色を塗り始める。自らの想いで、背中から肩へ肩から肘へ、肘から手首へ...そして指の先に繊細でかつ優美で颯爽とした動きを伝えてていく。

(もっと響け!!)

リナは心で叫んだ。両眼は楽譜と鍵盤を交互に見定め、その光は次第に獲物を狙う猛獣のような鋭さを放っていった。彼の悲しみは、彼の苦悩、彼の孤独は、彼の咆哮は、きっとこんなものではない。甘えるな私!暗闇から手を伸ばせ!

まるで自分を問い詰めるように一つ一つの音に埋没し、気がつくと空間というキャンバスはあらかたリナに塗り潰され、約10分の第一楽章はフィナーレを迎えていた。最後の和音はやがて静かに響いて周りに吸い込まれるように消えた。

(まだ弾き終わってない...もう少し)

リナの心が簡単に離鍵を許さなかった。それでもようやく自分を解き放つと、両手は音を立てずゆっくりと鍵盤から膝の上に返っていった。あらためて肩で大きく息をすると、携帯の画面が視界に入った。既に10人以上のリスナーが集まってる。

慌てて一人一人のリスナーに挨拶をする。「芸事は挨拶から」、コレはリナの家に伝わる家訓だ。少し大袈裟ではあるが事実大切にされていることだし、絶対に疎かにしてはならないと肝に銘じている。演奏の余韻も束の間、リナが慌ただしくも丁寧に挨拶をしていると、リスナーの一人が興奮した様子でコメントしてきた。

「さっき運営から緊急ニュース出た!TVのCMに出れるかもってイベント!絶対リナちゃん参加した方がいいよ!」

周りのリスナー達が色めき立った。

「え!?マジで?」
「なにそれ?どんなイベント??」

ふと、リナは昼間にぴろとカフェで話したことを思い出した。

(あ…ぴろさんが言ってた有頂天の?)

リスナーのコメントがパタリと止んだ。恐らくほとんどのリスナーが運営の公式発表を見に行ってるのだろう。リナはぴろから概要を聞いていたが、敢えてここでは知らないフリをしようと思った。後ろめたいというより、知らない方が正しいと感じたのだ。

ただ…リナは嘘をつくのが苦手だった。

自分では認識していないが、人を騙そうとすると右の眉が上がるらしい。おかげで正月に親戚一同でババ抜きをすると、毎年のように最弱王の不名誉を与えられるのだ。

リナは悟られないように画面を操作するフリをしながら、リスナー達に問いかけた。

「へー、そうなんだ。CM出演かー、どんなイベントなのー?」

うん、声もうわずってないし、至って自然。そう思ってリスナーのリアクションを待つ。が、返答がない?

「アレ?みんな落ちちゃった??」

首を傾げると、一斉にコメントが返ってきた。

「声聞こえないよー!」
「安定のミュート(笑)」
「ミュート乙ww」

...しまった!
操作するフリだったのに、ミュートボタンに触れてしまっていたようだ...恥ずかしい。
しかし、これが功を奏したのか、リナのウソは見抜かれることなく、自然と話題はPrincess U "Chouten"へと向かった。リスナーの報告によると、イベントの内容はほぼぴろから聞いた話と一致していた。

▪️Princess U "Chouten"概要
①参加資格は18歳から29歳迄でpocochaの配信歴が3ヶ月以上の女性
②国籍や事務所の所属有無は不問
③下記の3つのカテゴリーに分かれて5/31迄にエントリーする
A.歌唱部門 B.演奏部門 C.女優部門
尚、複数カテゴリーへのエントリーは認めない
④ファーストラウンドで各カテゴリー、各ランクで8人のファイナリストを選出する(ランク分けとファイナリストの選出方法の詳細は後日発表)
⑤セカンドラウンドはファイナリスト達によるノックアウトラウンドの1on1バトル
⑥各カテゴリの優勝者にPrincess U "Chouten"のプリンセスとして以下の賞金、賞品と権利を進呈する
・賞金500万円
・日春カップヌードル1年分
・UNRICSイメージキャラクター就任
・雑誌RALUMインタビュー掲載
・国土交通省PR広告出演
⑦その他の日程や詳細などは、決定次第随時リリースする

やがて配信内はコメントで埋め尽くされた。ライブ配信アプリのイベントとして過去に例を見ない規模で、コロナ禍以降の今の日本では最大級のイベントだと言えた。

「コンビで出るM-1が優勝して1,000万円。一人頭500万でしょ?変わらんやん」
「どっからそんな金出てきた?どうしたDeNA(笑)」

溢れるコメントの中に新たなリスナーが入室した通知が流れた。

「こんばんわー!リナちゃん"Chouten"出るよねー?応援するから絶対に出てよー!」
「あら、まぁいちゃん!?久しぶりー!」

女性リスナーのまぁいが開口一番リナにぶちまけた。まぁいはバンドと邦ロック好きのノリの良い女の子だ。

「リナちゃんのためのイベントみたいなものじゃん!みんなもそう思ってるって!」

そう言われてリナは嬉しい反面、急に訪れたうねりが大きな波のように広がるのを留めようとした。

「いやぁー、私なんかじゃムリだってー。」

リナは本気でそう思いながら、どこかで自分の力を試したい気持ちが芽映えそうなことにも気がついていた。それを踏まえて、リナは敢えて冷静さを保とうとした。自分の言葉にウソがないか、モニター代わりにしているタブレットの画面で自分の右の眉を確かめながら。

その時、タブレットに緊急ニュースが表示された。

『名神高速自動車道で大事故。15人死傷。』

リナは少し眉間にシワを寄せ、ふと、まだ配信にぴろが来ていないことに気がついた。いつもならとっくに来ている時間だ。

(まさか...ね...)

リナの心配をよそに、リスナー達は賞金の使い道やリナの主演CMの話で持ちきりだった。

(ぴろさん、何してるのかなぁ...)

外に降る小雨とほんのりざわつく風が、配信ルームの窓に映る光の形を歪めていた。

第十一話に続く


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