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連続小説「88の謎」 

第十七話 Quadro 〜空へ〜

その日の朝、前日まで3日間続いた雨がウソのように止んでいた。晴れ渡る空のその青さにリナは呆れるような気がしてきた。

(ま、晴れるよねー)

リナは自他共に認める「晴れ女」だ。節目のイベントごとでは必ず晴天を連れてきている。我ながらすごいと鼻歌混じりで朝を迎えていた。
そんなリナは、地元大阪では知らない人はいない天満橋の桜を横目に、リズムよく歩いている。数週間前まで桜が咲く季節をこんな気持ちで迎えるとは思ってもみなかった。リナはふと高校に入学した日のことを思い出していた。

(まるであの日と同じ...桜日和だ...)

今まで緊張という緊張は味わってきた。初めて男性とのデート、一発で合否が決まる音大の実技試験、1,000人を収容出来るホールでの独演、高校教師になって最初に生徒の前にたった日...今までのどの緊張とも違う身震いがリナを昂らせていた。

さらに歩みを進め、大阪帝国ホテルの正面玄関のピロティに辿り着いた。そこが戦場の入り口だった。受付で「エントリーno.5 大橋リナ」と書かれた小さなネームプレートを受け取り、それを握り締めた。

(未来はまだ決まってない。それが希望だったのにね)

いつからなぜ不安に変わったのだろう...ふとリナは思った。ピアニストとしての技術を磨くため高校教師を辞め、家業を手伝いつつ、ピアノ教室を開いた。徐々に生徒達が集まり、生活の基盤が出来つつあった。それでも常に満足することなく、今を生きていた。Princess U "Chouten"への挑戦も、誰と対戦するなどということより、これからも続くであろう音楽との格闘のひとつだと考えていた。

(いや、不安でも不満でもないか。)

そう思い直してリナは一歩目を踏み出し、赤いビロードを矢印に向かって真っ直ぐ進む。少なくともリナは書類審査で選ばれた1人である。スイッチを入れて会場に向かうその顔つきは、さながら敵地に赴く戦士のようだった。

会場の小ホールに入ると、既に30人ほどの女性が居た。時間に余裕を持って来たつもりでいたが、部屋の広さからすると、半数以上の人数がいるようだった。4名掛けの長机の上にひとりひとりの名札が貼ってあるのに気づき、リナが自分の名前を探そうとした時、進行役と思しき男女が2名が説明を始めた。

「Princess U "Chouten"の面接にご参加のみなさん、お疲れさまです。こちらがみなさんの待機場所となります。お席は前方の右側から50音順に並んでいますので、ご自身のお名前と同じ席につき、ネームプレートを机の上に置いてください。繰り返します...」

アナウンスを聴きながらリナは前から2列目の机の上に自分の名前を見つけた。通路側の端の席に座り、受付で渡されたネームプレートを机の端に並べた。面接をイメージし、志望動機や質疑応答について脳内でシミュレーションをしてみる。
次第に席が埋まり始めて、面接開始時刻の10分ほど前になった時、隣にセミロングの女性が駆け込んできた。

「良かったー!間に合った!」

肩で大きく息をしながら、カバンの中をかき混ぜるように探っている。

「アレ?ネームプレート...あれ??」

どうやら参加証であるネームプレートを探しているようだ。

「えええーっ!?さっき貰ったばっかりなのにもう失くすなんてことあるぅーーっ!?」

更にカバンの中を引っ掻き回し、しまいにはカバンを逆さにして中のものを全て出し始めた。と同時にリナの足元に何かがコツンと当たった。リナが足元をみるとそこに「大原エリ」と書かれたネームプレートが落ちていた。

「あのー、落ちましたよ?」

リナはネームプレートを取って隣の女性に声をかけた。

「えっ!?あっ!!ありがとうございますーーー!!良かったぁ...」

渡されたネームプレートをぎゅっと握りしめると、半べそをかいていた顔がパッと晴れた。

「ほんとにありがとうございますっ!私、大原エリっていいます!」

エリは今しがた握りしめてたネームプレートをリナに見せながら、笑顔で挨拶をしてきた。リナはその天真爛漫な姿につい頬を緩めた。

「初めまして。私は大橋リナっていいます。よろしくお願いします。」
 
「こちらこそよろしくお願いします!うわぁーリナさんお姉さん顔してるー!めっちゃキレイ...」

「そんなことないです...エリさんこそお綺麗じゃないですか。あ、もしかして...それ...楽譜?」

リナはエリの鞄の中に仕舞おうとしている冊子に気がついた。手書きの筆記体だが表紙にLiszt Ferenczと書いてある。リナはそれだけで身が引き締まった。

(リスト...しかも母国のハンガリー語で名前が書いてある)

ピアノの魔術師と称されたリストは、ハンガリーで生まれの今で言うドイツ移民であった。時代背景から母国語のハンガリー語は話せなかったとされており、一般的にはドイツ語でFranz Liszt(フランツ・リスト)と表記されることが多い。

(しかも手書き...??)

リナの疑問をよそに、エリは続けた。

「そーなんです!私今回演奏部門にエントリーしてるんですけど...あ、リナさんも、もしかしてピアノ弾かれるんですか?」

「はい、そうです。小さい頃からピアノ一筋で、特技がピアノしかないと言うか...」

そこまで言いかけて、リナは言い換えた。

「ピアノが私の人生なんですよね...これからもずっとピアノと生きていきたいなーなんて。少し語っちゃいますけど(笑)」

「うわー、リナさんカッコいいー!私も小さい頃からピアノ弾いてたんです。コンクールとかにも出たことあるんですけど、なんかだんだん窮屈になってきちゃって...ちょうどネイルにハマってきたから、一旦ピアノは卒業してたんです。」

と、エリは指を広げてネイルを見せた。リナはその指に息を呑んだ。

「うわぁ...指、長くてきれい...」

「えー?ほんとですかぁー?でも昔は『ゆびながオバケ』って男の子にからかわれてたんですよー。」

そう言ってエリは恥ずかしそうに笑った。リナは自分の胸が思い出の小さな針で突かれた気がした。息が止まり、エリの瞳を真っ直ぐに見つめた。

(この子、素直な子だなぁ...)

それまで独りで戦おうと思っていた気持ちが会話の中に溶け出してしまっていた。わずか10分弱の間だったが、お互いのことをまるで昔からの友人であるかのように話していた。

年齢が一歳違いで、実は子供っぽいエリの方が年上だということ。今日エリは愛知から大阪に来たが、道に迷って警察官に付き添われつつ乗り換えを繰り返してきたこと。二人とも甘いもの好きで、パクチーが死ぬほど嫌いなこと。そして共に小さな頃からピアニストを目指していたこと...

(あの日もこんな風に話しかけてくれたよね)

エリの笑顔を見ながら、リナは一人のかけがえのない女性を思い出していた。

「ねーねー、そう言えばリナちゃんも名前カタカナだよね?」

「あ、そうですね。えっと、実は私の母親もカタカナで『エリ』なんです。」

「ええー!?マジでー?もうそれ奇跡じゃん!ウチの母親なんか『ジェニファー』よ?」

「え!?ジェニファー...さん?」

「いやー、家の中でのあだ名だけどねー。」

二人で大笑いし、会話のテンションがピークに近づいた時、進行役から声が掛かった。

「それでは定刻となりましたので、これよりPrincess U "Chouten"の面接を始めます。4人一組で審査室へとご入場いただき、面接を受けていただきます。終わりましたら、ネームプレートを席の上において退出してください。なお、審査時間は概ね一組10分を予定しております。」

会場の空気が一変した。リナの耳に周りの緊張の音が聞こえる。呼吸を整えて、リナは背筋を伸ばした。
隣から視線を感じ、エリの方を向いた。キラキラと目を輝かせるエリがそこにいた。

「リナちゃん!一緒に合格しようね!」
「あ、うん!そうですね!」

エリはリナの右手を上からぎゅっと握った。リナは驚いたが、その手の上から左手でそっと握り返した。さらにエリが左手を重ねて、4本の手が互いを確かめた。エリが耳元で囁いた。

「リナちゃんの手、ずーっと頑張ってきた手だね。」

会場の時計は10時を周り、少しずつ針を動かしていく。この出会いが互いの運命を大きく変えるこ
とになると、二人はまだ知らなかった。

第十八話に続く



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