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連続小説「88の謎」 

第十三話 Marcato

タカシのMOMOへのキスはいつも丁寧だった。真っ直ぐ目を見つめ、その後ゆっくりと唇から頬、首すじ、耳元まで、繋がれた真珠のひとつひとつを辿るように、優しく這っていく。それに応じるようにMOMOは少し顎を上げ、瞼を閉じる。MOMO は心から「愛されている」と感じた。その気持ちが昂るにつれ、時に泣きそうな感情を抑えるのに精一杯になる。それでも堪えられずに涙が溢れてしまうと、いつもタカシは困ったようにMOMOへ問いかける。

「ごめん、MOMO。嫌だった?」
「ううん...なんでもないの...」

自ら相手に好きだと言葉にしてしまうと、この時間が途切れてしまいそうだと感じ、MOMOは涙も拭わずにタカシに身を任せた。二人で試しに聴いてみようと話していたニューオーリンズのジャズがMOMOの背中を流れていった。

料理人のタカシと初めて出逢ったのはMOMOの店だった。誰の紹介か忘れたが、一人で店に来て1時間ほどで帰っていった。立ち振る舞いがシュッとしていて、悪い印象がない30代半ばの男性だった。そして思わぬ形でMOMOはタカシと再会をする。

春先にMOMOの住むマンションの近くに新しくパン屋がオープンした。パン屋は連日賑わっており、焼き立てのパンはすぐに売り切れることが多かった。
その中でも胡桃入りのバケットは大人気で、1本を半分に切ったバケットは一人暮らしの女性にはちょうど良い大きさだった。それはすぐにMOMOのお気に入りの商品になった。

ある日、MOMOが洗濯物を終え、そのパン屋に足を運んだ時のことだった。昼過ぎの店内は混雑のピークを迎え、バケットは残り1本になっていた。

(良かった、買えた。)

MOMOが最後のバケットに手をかけたようとした時、後から入ってきた主婦と思しき女性が割り込み、奪うように勢いよくバケットを握ってレジに持って行った。

「あっ...」

MOMOは思わず声を出したが、すぐに何もなかったかのように目を伏せた。人気があるものは人気がある理由がある。そしてそれは独り占めは出来ないと自分の中で理解している。

(今日は私の日じゃない。)

MOMOは聞き分けの良い子供のように素直に別のパンを選び、表情を崩さぬまま、バケットを買った主婦が店を出てからレジに並んだ。
その時にMOMOの後ろに並んだのがタカシである。

「あの...」

レジを通って店の外に出た時、MOMOはタカシに声を掛けられた。何か失礼があったのかと思い、MOMOは慌てて振り返った。タカシは細身で少し筋肉質な肌が映える、長身の男性だった。

「もし良ければ、このバケット持って行かれませんか?」

MOMOは少し驚いた。

「いや...そんな、申し訳ないです。」

MOMOは見ず知らずの人にパンを分けてもらうなんて、あり得ないと思った…が、しかし、MOMOはこの男にどこか見覚えがあるような気がした。

「いえ。実はコレ、僕が焼いたパンなんです。」

意外な言葉だった。MOMOは思わずタカシに目を合わせた。タカシの目元で緩んだ笑いジワはなんだかMOMO試しているようだった。

(あれ?この人、一度ウチの店に来てる...??)

うっすらとした記憶を辿っていると、そのままタカシが続けた。

「いつもこのバケットを選んでくれてますよね?きっと好きでいてくれてるのかなぁって嬉しくなってしまって。」
「えー、そうだったんですかー?見られてたなんかなんだか恥ずかしいです。」

MOMOは思わず笑顔になっていた。タカシの話し方、声質はスマートだった。嫌味がなく、真っ直ぐに感謝が伝わってくる。

タカシはMOMOに尋ねた。

「ふだんこのバケットってどうやって召し上がってますか?」
「えーと、ガーリックバターを塗ってトーストすることが多いです。」
「おぉ、嬉しい!それ、一番美味しい食べ方だと思います。もし良かったら、このパンで一度クルトンを作ってみてください。パンプキンスープに入れるとめちゃくちゃ合いますので。」
「あ、そうなんですか?そんな食べ方したことないです。試してみよっかなぁ…」

店の外とは言え、パン屋の袋を抱えた男女が長話してるのもどうかと思い、阿吽の呼吸で二人は近くのカフェに行くことにした。

カフェでMOMOはある程度の確証を持ってタカシに尋ねた。

「あの...失礼ですが、もしかして"one hundret"っていうお店ご存知です?」
「はい。MOMOさんですよね。一度お邪魔したので覚えてます。名刺、センス良いなって思いました。」

ほら、と言いながら胸ポケットの名刺入れからタカシはMOMOの名刺を取り出した。白色と黒色がベースのシンプルでロゴが卒なく映える名刺はMOMO自身がデザインしたものだ。

「名刺、褒められるの嬉しいです。」

MOMOは微笑んだ。タカシの細くも凹凸がくっきりと浮かぶ指を見て、ラウンジでの会話を思い出した。
ジャズの名曲 "It's Only a Paper Moon"はナットキングコールよりもエラ・フィッツジェラルドの方が好きなこと、ウイスキーが熟成される際に蒸発してしまう水分を「エンジェル・シェア」と呼ぶことなど、タカシの話は幅が広く知的だった。高級志向を目指すラウンジのオーナーとして「また来て欲しい」と思える客であったはず…

(なのになんでレジに並んでる時に気付かないかなぁ...)

MOMOは少し自分を責めた。プロ意識が足らない。オフの時間とは言え、もっと自覚を持つべきだと思った。

そんなMOMOの思考をよそに、タカシが言った。

「僕、もうあのパン屋辞めるんですよ。自分の店を持つことになりました。なので、このバケットが最後になるんです。」
「え?そうなんですか??」
「元々店主さんと、立ち上げの時だけお手伝いする、っていう約束だったので。」
「ええー、残念。そしたらこれ貴重なバケットですね。」
「あ、そしたらこのバケットにサインでも入れましょうか?」

そんな冗談に二人で笑いながら、話の流れでMOMOはバケットをいただくことになった。それから連絡先を交換し、どちらからともなく食事に誘い合う仲になった。

「今、ライブ配信を通して、家でも出来る手軽なフランス料理のレシピを案内してるんです。良かったら今度見てみてください。」

タカシが携帯を見せた。そこにはタカシのアイコンとプロフィールが映っていた。

「ほー、面白そうですね!」
「でしょ?女性に人気なんですよ♪」

MOMOの胸がチクリと痛んだ。だが、タカシはこちらから目を離さない。

「MOMOさんに見てもらいたくてこのページ作ったんです。」

そこには一人暮らしの女性向けのパンの使い切り方や保存方法などが載っていた。

「ライブ配信のプロフィールから自分の店のホームページに誘導出来ればいいな、と思ったんです。料理自体に興味を持ってもらいつつ、お店の集客にも繋がったらなーって。」

なるほど。しっかりしてる。とMOMO は納得しつつ、待てよ、と思った。

(この人、今なんて言った?)

確か「私に見てもらいたくて」作った、って聞こえたけど...?MOMOが言葉を順序立てて並べ替えている時、予知が脳内に映し出された。

「あっ!」

MOMOは小さく声を上げ、顔を赤らめた。

(嘘でしょ??なんで私...どうしよう…)

MOMOは「その」未来に戸惑い、身動きが取れなくなってしまった。


ジャズのCDが2回目のリピートを終える頃、夢見心地で愛されたMOMOは、眠っているタカシを起こさないよう静かにベッドを降り、シャワーを浴びた。あの時の予知の通り、タカシは今、自分の隣にいる。運命と時の流れに身を任せたことに、MOMOは僅かな後悔を抱きながら、自分の携帯でタカシが使ってる配信アプリを開いた。

「え!?...これ...まさか……リナ!?」

画面の向こうには熊のぬいぐるみを抱えた女性のアイコンが映っていた。MOMOはさっきまでの緩やかなバラードの余韻が消え、カラダ中の血液が沸騰するような感覚に陥っていた。

(はっきりと分かる!間違いない…リナだ!)

そんなMOMOの姿を、タカシはベッドの中からそっと笑みを浮かべて見つめていた。

第十四話に続く


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