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連続小説「88の謎」 

第二十話 Tempo di valse

深みがかった赤に黄色で「千早苑」と書いてある看板の下まで、2人は全力で走った。

「もう...ちょっと...ムリなんだけどぉー!!」

エリは肩で息をしながら両膝に手をついていた。

「まさか…エリちゃんが…あそこで転ぶなんて...ふふっ」

リナも息を切らしながら笑っている。町中華を掛けた乙女達のかけっこはリナに軍配が上がった。
一足先に軽く前髪を整えたリナは、バッグから白と黒のシュシュを1つずつ取り出した。白のシュシュで自分の後ろ髪をサッと縛ると、まだ息を整えているエリの髪を、もう片方のシュシュで同じようにまとめあげた。

「負けたのでエリちゃんは黒のシュシュでーす。」

勝ち誇ったリナはえっへん!という顔で、ようやく真っ直ぐ立ったエリに胸を張った。

「リナちゃんがこんなに足速いなんて聞いてないんですけどぉー...あと、このシュシュは何なのー??」
「ズバリ!お答えしましょう!まず...難波のピーターラビットとは私のことです。そしてシュシュを着けるのはこのお店でご飯を食べる時の正装だからです。」

ピーターラビットの足が速いのか遅いのかをエリが聞き返す暇もなく、リナは古びた暖簾をくぐり店の中に入っていった。エリはしぶしぶと敗北を噛み締めつつリナの後に続いた。

「へいっ!らっしゃーせーっ!...お!リナちゃんや!」

カウンターの奥から小柄な中年男性の威勢のいい声が響いた。

「あ、ムッチョさん!お久しぶりです!」
「おー、ホンマ久しぶりやなー。おや、今日はえらいべっぴんさん連れて来とるやないか。奥、空いとるで。」

エリはペコリと頭を下げた。リナがエリを手招きした。ムッチョと呼ばれるこの男は店の大将だ。リナはカウンターに座り、自慢げにムッチョに話しかける。

「えへへー、こちらは愛知県が産んだべっぴんさんのエリさんです!あー、お腹空いたぁー。」
「はいはい、テキトーに頼んでなー。そこにメニューあるやろ?」

リナのトーンの変化にエリは少し戸惑った。よっぽど古くからこの店の常連なのか、リナは我が家に居るかのように振る舞っている。

「エリちゃん、ここのオススメはねー、天津飯と小籠包なんだ。」
「そうなのー?じゃあそれ頼もっかな!良い匂いでもう我慢できないかも。」
「うん!じゃあムッチョさん!天津飯2つと小籠包2つ...あと、青菜炒めも追加で。」
「あいよー!」

ムッチョがオタマを持ってカウンター近くまでやってきた。

「あれ?ムッチョさん、また少しハゲてきた??」
「あん?リナちゃんもえらいこと言うようになったなぁ、もー。」

ムッチョはオタマを振りかざしてポーズを決めつつ叫んだ。

「おめぇに食わせる天津飯はねぇ!」

と、その時、厨房の棚の上の中華鍋がムッチョの頭の上に落ちてきた。

「ゴツンッ!ガラーーンッ!」

鈍い音を立てて中華鍋はムッチョの脳天を直撃して転がった。

「ええええええええーーーっ!?」
「ちょ、なんでぇーーーーっ!?」

リナとエリは同時に声を上げた。ムッチョは痛さのあまりに頭を抱えて床にうずくまっている。

「嘘でしょーっ!大丈夫ー!?」
「ねぇー、ありえないんだけど!」

こっちを振り返った涙目のムッチョを見て、リナとエリは大爆笑した。厨房の奥からアルバイトと思しき若い男性が飛び出してきた。

「ちょっとー!ムッチョさん何やってんすかー?ふざけてないで、早く作ってくださいよー!」

若い男性はオタマでムッチョのスネをゴツンと叩いた。

「あっっ!痛っっ!!」

更にムッチョの顔面が苦痛に歪む。もうリナ達の腹筋は崩壊寸前だった。周りにいた客達もケラケラと笑っている。

「もーかなわんわー。」

ムッチョは頭とスネをさすりながら、ひょこひょこと厨房へ下がっていった。

「ねぇ、ここ新喜劇なの?」

エリは笑いながら言った。

「ごめん、エリちゃん。今日ここの劇場、大入りの当たり日みたい。」

リナも笑いを堪え切れずに目頭を抑えた。リナのホームグラウンドはお笑いの聖地に相応しい場所だった。
それから5分ほどして青菜炒めが、そしてさほど間を置かずに小籠包が運ばれてきた。

「うわー!美味しそう!」
「でしょ?青菜炒めはしっかり味が付いてるからそのまま食べてみて。」

ひょいとエリは青菜を口に運ぶ。

「おいしーー!」
「ほんと?良かったー。」

リナもひと口つまむ。うん、いつもの味だ。ふと横を見ると、エリが懇願するような顔つきになってる。

「ねぇ...リナちゃん。お願いがあるの。」
「え?なに...?」
「あのね...私実は超ウルトラスーパーハイパー猫舌で...小籠包食べたいんだけど...絶対食べれない...」
「あ、そうなんだ。ごめんなさい...知らなくって...」

リナは素直に謝った。そして謝りつつ、なんで謝っているんだろうと思った。しかしエリの顔はまだ深刻なままだった。

「あのね...リナちゃん、引かないでね?私、家だと熱い料理はお母さんがフーフーしてくれるの...それでね...リナちゃん...申し訳ないんだけど、代わりに...そのぉ...してくれる??」
「え...?私が...エリちゃんのを?フーフーするの??」

この時、リナは周りの客達が2人をそれとなく見ているのに気がついた。それもそのはず、このビジュアルの2人が先ほどから大笑いしたり、大きな声で料理を褒めちぎっているのだ。目立たないわけがない。この店の全ての客の視線は今やリナとエリの前の握るレンゲに注がれていた。

(ちょっと、こんな羞恥プレイするなんて聞いてないっ!)

すがるエリの顔と周りの客の好奇の目線に耐え切れず、リナは腹をくくった。レンゲで小籠包をすくい、口をすぼめてゆっくり小籠包にふぅふぅと息を吹きかけた。

「リナちゃぁーん...優しいぃぃ...」

吐息のようなエリの声が漏れて聞こえる。もはやここは2人の愛の劇場である。リナのほとばしる母性が町中華のカウンターを包む。年齢、性別を超えて渾然一体となったオーディエンスが固唾を飲んで見守る。そう人は愛し愛されて生きるのさ。まるで優雅なワルツが流れてきそうな雰囲気であった。

「リナちゃん...もう少しだけ冷まして...」

潤んだエリの瞳がそう訴えかける。

(いやぁ...何してん私...)

リナは我に返り、レンゲをそっとエリの前に置いた。

「はい。しゅーりょーです。あとはご自分でなさってください。」
「えー!リナちゃんもう終わりなのー?食べれるかなぁ...」

恐る恐るエリは小籠包を口に運んだ。噛み締めると、びゅるっと汁が口の中に広がる。

「んんんんっ!!!」

エリが悶える。

「え!?エリちゃん大丈夫??やっぱりまだ熱かった!?」

エリはリナの方を向き、両手で大きく丸を作った。

「コレちょー美味しいんですけどーっ!!!」

エリは足をバタバタさせて興奮を露わにしている。どっと周りの客の笑い声が響いた。気がつくと厨房から出てきたムッチョも笑顔でその様子を見守っている。
エリがムッチョに向かって叫んだ。

「ハゲッチョさん!ちょー天才!小籠包マジでおいしーよ!!」
「誰がハゲッチョやねん!お前に食わせる...」

ムッチョが言い返そうとした瞬間、女性の店員がオタマでムッチョのスネを叩いた。痛みでまたムッチョがしゃがみ込む。

「痛ぇっ!!コラ!かなみ!なにしやがんだ!」
「いい加減サボらずに天津飯作んなよ!もうランチの時間終わっちまうよ?」

店内は外に響き渡るほどの笑い声で包まれた。リナも笑いながらも、残りのエリの小籠包をどうやって食べさせようか悩み始めていた。

第二十一話に続く



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