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連続小説「88の謎」 

第十八話 Rhapsody

面接用の別室は、通常20名くらいの会食で使う「桐の間」という個室だった。部屋の名前を見て、リナは自分に風が吹いているように感じていた。

ほどなくして別室に呼ばれたリナとエリとは1メートルほど離れた隣同士で席に座った。その奥にさらに別の参加者2名が等間隔に座っている。
リナはあたりをそれとなく見まわし、男性2名と女性1名の面接官が座っているのを確認した。そして、会場で聞いた説明から逆算して、個別の質問の解答時間はトータルでも1人あたり2分強だろうと推測していた。そうすると想定される質問は3つか多くても4つくらいに絞られる。リナは面談の意味合いがさほど重要でもない気がしてきた。そして、失礼ながらビジュアル的にそこまでずば抜けた存在が見当たらないと思っていた。

...ただひとり、エリを除いては。

少し距離を置いた隣の席に居ながら、背筋を伸ばして座るエリの姿は群を抜いて存在感があった。そして、さっきまでの慌てふためいた姿とは打って変わって別人のように映った。

(いや、別人だ...)

リナは息を飲んだ。エリは真っ直ぐ前を見据えて、堂々と座っている。ストレートの黒髪は艶やかさを増し、眼差しも唇も、どこか気品を感じさせるようにすら感じる。女性が憧れる女性像そのものだとリナは思い始めていた。そして自分の強く拳を握り締めた。

(そっか...バカだな、私。)

リナは自分の中で自分を恥じた。それぞれの思いがあって、皆この会場に来ているはずだ。その形は違えど、ここに居るのは同志であり、ライバルだ。ビジュアル云々と思っていた自分を捨て去るように、エリと同じように前を向いた。リナの顔に自然と笑みが浮かぶ。こんな気持ちはいつぶりだろうか?その白い頬には高揚した赤みが薄く刻まれはじめていた。

右側の男性面接官が腕時計をチラリと見て、他の面接官に目配せをしてから口を開いた。

「みなさまおつかれさまです。本日はPrincess U "Chouten"の面接にお越しいただき、ありがとうございました。これからいくつか質問をしますので、左側の方からひとりずつ順番にお答えください。ゆっくりで結構ですので、しっかりお話いただけるとありがたいです。」

型通りの説明を終えると面接官は本題に入った。

「まずお名前とご自身の得意とする楽器、今回のイベントに参加した理由をお聞かせください。」

回答のトップバッターはリナだった。リナは答える前に既に深く息を吸いきいっていた。その声が別室に響く。

「はい、私は大橋リナと申します。幼稚園の頃からずっとピアノと一緒に生きてきました。このイベントに参加した理由は...」

この時、リナは恐ろしいほどに冷静だった。少し離れたエリが自分のどの辺に目線を配ってるかが読み取れるほど、周りの空間が視界に入っていた。
最初の質問はぴろから聞いた想定の通りだった。

『いつも支えてくれているリスナーに後押しされて、みんなに恩返しをしたくて』

と答えるはずだった。
...だがリナはそれを捨てた。

更に軽く吸った息は透明なまま、意志を伴った言葉となってリナの口から流れはじめた。

「私が参加した理由は、ピアニストとして私を育ててくれた母親の恩返しと共に、私が歩んできた道が正しいことを、リスナーさんや審査の方々が証明してくださると思ったからです。」

女性審査員の手が止まった。彼女の視線が刺さるのが分かる。だがリナは続けた。

「日本において、音楽家が陽の目を見る舞台は決して多くないと思っています。でもこのイベントなら、それが叶うと思っています。」

正しいリズムでリナの思考の中の物語は進む。もちろん言葉に嘘偽りはない。その船を漕いでいけ、お前の手で漕いでいけと。

「これからも私がピアノと生きるために私はこのイベントで頂点に立ちます。」

リナの勝利宣言は穏やかな春先を切り裂く狂詩曲の始まりとなった。
面接官はコクリと頷きエリの方を向いた。女性の審査員のペンがずっと止まっていることにも、リナは既に気づいていた。もともと用意してきた答えなんて意味がない。その時その場所で感じたことを表現するのが表現者である自分の役割だとリナは思った。

次はエリの番だった。言葉を閉じたリナの代わりに、エリがその場の空気を吸い込んで話し始めた。

「大原エリです!私の母はピアニストでした。母に楽譜を描いてもらい、母の楽譜で演奏するのが私の毎日でしたが、いつの間にかピアノが窮屈だなと思うことが出てきて、ピアノを捨ててしまいました。でもこの前、母の新しい楽譜を見つけたときに、またピアノを弾きたいと思ったんです…私は母親であるジェニファー冨田をこのイベントで超えたいです!」

(ジェニファー冨田!?)

リナは驚いた。クラシック奏者を目指すものとして、ジェニファー冨田の名前も知らないものなどいない。1990年代世界中でその演奏が絶賛された稀代の日本人ピアニストである。ピーク時には音楽の本番ヨーロッパのみならず、アジア、アメリカと世界ツアーを繰り広げていた。
その凄さの象徴として、バブル景気の折に彼女が演奏したスタンウェイのピアノが、1億円で落札されたと言うニュースが駆け巡り、世界各国の新聞記事になったほどである。

(じゃあ…さっきのあの楽譜は…ジェニファー冨田の手書きの!?)

リナはあっけにとられた。なぜこんな奇跡が起きるのか?ピアノを生涯の伴侶とすら思っていた自分の隣に、天才ピアニストと呼ばれた伝説の人物の娘がいるなんて…

面接会場の空気はわずかだが、2分されていた。リナとエリの向こう側にそれぞれサックスとフルートを抱えて座っていた参加者の2人はキョトンとした顔でその様子を見ていた。
面接官の2人は驚きを隠せぬ様子でエリの言葉を噛み締めていたようだった。しかし、女性面接官のペンが走り出した音を察知して、男性審査員が次の参加者会質問に答えるよう声をかけた。

残りの2人の女性が質問に答えている間、一瞬だけエリはリナの顔を見てペロっと舌を出した。リナは、その様子に思わず笑みを浮かべてしまった。どうやらここにいる運命の神様はとんでもなくいたずら好きらしい。先程の武者震いからときめきにも似た感情リナは抱いていた。

熱狂的で運命的な出逢いを紡ぐ…その年の4月8日はそんな日に相応しかった。

第十九話に続く



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