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連続小説「88の謎」 

第ニ話 Brillante

「いやぁ…本名だとは思ったけど…そっかぁ…カタカナかぁ…」

彼は手のひらを額に当てて少しオーバーとも取れるリアクションを見せた。

「まぁ読みやすいし、呼ばれ慣れる名前の方が配信には向いてるよね。」

彼の言葉は軽く響いた。拍子抜けした、という表情でどこか宙を見つめている。
私は逆に、配信するライバーの名前なんてそんなもんじゃないの?と、疑問符を浮かべつつ、彼を見返した。右折を続ける車の列はまだ途切れることなく、それがこの交差点の大きさを物語っていた。彼は真っ直ぐこちらを向き直した。

「リナ…うん!いい名前だよね。ね、リナ?」
「え…あ、ありがとうございます。」

私は素直に礼を述べた、つもりだった。

「あれ?嫌だった??」

彼はいぶかしげにこちらを見つめた。あっという間に自分自身でも変化が分かるくらい、顔が熱くなっていた。
(どうした、私!?)
思わず慌てた。目線が合ったから?名前を呼ばれたから?その理由を探しつつ、私は自分の置かれた状況を把握することに努めた。
異性に名前を呼び捨てにされることなんて何度もあったし、顔が多少近付いたくらいで意識はしない。中学のフォークダンスなんて世界が止まって見えてたし…

(落ち着け。まずは深呼吸だ。)

すぅ、と息をひとつ吸い込み、吸い込んだ倍の時間を掛けてゆっくり息を吐き出した。空の輝きが戻ってきたように感じる。通り過ぎる車のエンジン音も、慌てて飛び立つ鳥の羽ばたきも、真っ直ぐ聞こえる。うん、全て取り戻してるはずだ。

「すみません…名前を呼び捨てられたの久しぶりで…でも名前褒めてもらえて嬉しいです。」

掴んだ冷静さを放すまいと、私は言葉を絞り出した。目線をゆっくり彼に戻し、バッグの中のハンカチを探した。

「ここからは私のターン!」

閃きに似た指令が脳をよぎった。ハンカチで汗を抑えながら、私の口は呼び慣れた彼の名前を、ワザと少し甘く唱えた。

「ぴろさん…」

彼は横断歩道の信号から目線をこちらに戻した。あと何秒で信号が青になるか、ご丁寧に指折り数えていたようだった。が、私の囁きでその指が固まっている。

「ぴろさんは今日何時くらいにお家を出て来られたんですか?」

ぴろ、というのは彼のハンドルネームだ。正しくは「ぴろろ」で、本名の洋(ひろし)から付けたと聞いていた。信号がちょうど青に変わり、それが止まった時計の針を動かした。どちらともなくあらためて歩を進めた。

「朝6時くらいです。昨日ほとんど寝れなくて…遠足前の子供みたいでした。気が付いたら朝だったので、もう車に乗って向かっちゃえ!って。」

なるほど。テンションの高さは徹夜明けの勢いもあるのか、と納得しながら、不意に脳裏に先ほどのシーンがリプレイされた。顔が赤くなった瞬間のことを思い出したのだ。
私には思い当たる節があった。周囲に漢字の名前の子がほとんどの中で、リナという名前はやはり珍しく映ることがあった。母親が付けてくれたこの名前には自信と誇りがあった。今でこそダイバーシティなどと多様性や個性を強調する時代になったが、そもそもこの名前が唯一無二だし、母から手渡されたバトンであり、宝物だと私は思っている。その名前を褒めてもらえたことが嬉しかったのではないか?と、なんとなく気付いたのである。
心の琴線がどこに触れるか、誰が奏でるかなんて神様しか知らない。神様だってミスタッチのひとつやふたつ、することがあるだろう。他人に完璧を望むほど私は傲慢な人間ではない。例えそれが神様であっても、だ。
そんな独自の理屈も織り交ぜながら、さてここから何を話そうかと私が考え始めた刹那、春風がイタズラを仕掛けた。強く砂を巻き上げ、視界を遮りそうなほどのつむじ風が舞った。思わず瞼をぎゅっと閉じる。周囲から叫び声や悲鳴に似た声が上がる。会話の流れを断ち切るのに十分なその風は、やがて何事もなかったかのように収まっていた。ゆっくり目を開けると、そこに彼の心配そうな顔があった。

「リナ!大丈夫?」

私は周りほど慌てる仕草はしてなかったはず…と思うものの、彼は私の目線までしゃがみ込み、眉をひそめてこちらの様子を伺っていた。

「あ、いえ…大丈夫です…多分。」

そう答えた瞬間、私は強いデジャヴを感じた。この感じ、このシチュエーション、どこかで一度見たことがあるような…
それも束の間、その続きを探ろうとしたものの、新しい現実を先読みすることは出来ず、不思議な感覚はするりとカラダを抜けて、小さな波紋のように広がり、やがて静かに消えていった。

(なんだったんだろう…)

そんな私の心の動きを察したのか、彼は黙って微笑みを浮かべ、瞬きで私を促した。まだ私達は横断歩道の途中にいたのだ。

「リナ、急ごう!」

彼に導かれて渡りきった頃にはとうに信号は赤に変わっていた。周りの車がクラクションを鳴らさなかったのは彼が事前に辺りの車を制してくれたからだと気付いた。

「あっ…」

私は声にならない声を発していた。気が付くと私は彼に手を繋がれていたのだ。横断歩道に長居することが危険と判断してのことだろうが、あまりにも自然に繋がれた手は、既に振り解きにくくなっていた。

(ずるい…)

咄嗟にそう思った。手を繋がれることがどうこうというより、何となく彼に対してそう感じてしまったのだ。
やがて叢雲の間から、にわかに差し込んだ光の束達が街を照らした。息を忘れて、瞬きさえも億劫に感じた。まだ春になったばかりだというのに、一旦下がった私の中の温度がまた再び上がっていくのであった。

第三話に続く

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