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連続小説「88の謎」 

第二十二話 Venusto

数人のギャラリーが見つめる中、エリは試しに両手で和音を奏でた。誰もが一瞥してピアノ経験者と理解出来る所作である。しかしエリはその音に耳を傾け、少し戸惑った様子を見せた。その直後、エリは空を見上げ、息を大きく吸った。

リナにエリの戸惑いが染み込むように伝わってきた。

ストリートピアノの歴史はまだ浅く、日本で本格的に認知されたのは10数年ほど前である。駅の構内や野外に設置されるストリートピアノは様々な人が触れ、メンテナンスも十分ではないことが多いため、一般の人では気が付かないレベルで調律が不十分であったり、音色の違いが生まれてしまうのが常だ。
「誰でもピアノが弾ける」というエンターテイメント性の高さに反して、ピアノには過酷な試練が待ち構えている。本来と異なる環境下に置かれ、メンテナンスや調律も不十分なストリートピアノ達は、本来の能力を100%引き出せないことがある。そう考える音楽家は少なくない…そしてリナもその一人であった。

エリがピアノに触れた時に「ごめんね。なんか。」と呟いたのも、一般人が気付くことのない和音のズレに戸惑った姿も、エリのピアノへの想いだとリナは感じたのである。

それは合っていた。

ただ、その上でエリはピアノの「音を楽しむ」という音楽の可能性のために椅子に座ったのだった。自分だけではない他の誰かのために。空には薄く茜が差し始めている。

エリは手を膝の上に戻し、何も置かれていないピアノの譜面台を10秒…いや20秒ほど見つめていた。おもむろにピアノに左右の腕を伸ばすと、リストの「ラ・カンパネラ」を弾き始めた。夕暮れ時の心斎橋に軽やかで鮮やかな音が響き渡る。

リナはエリの選曲を予想していた。手元の預かったエリのバッグから、手書きのリストの楽譜が覗いている。ただ理由はそれだけではない。

リストはその曲が超絶技巧と呼ばれるだけではなく、彼の人柄にも多くの研究がなされていた。音楽家としてだけではなく、教育家、社会家としてヨーロッパ各国を巡っていた。
リストなどのロマン派が活躍していていた19世紀、まだ地方の貧しい地域にはオーケストラの音楽が届くことがなかった。リストはチャリティーコンサートを開催し、ピアノによるメロディを伝え広げていった先駆者の一人でもある。ヴァイオリンの天才、或いは鬼才であるパガニー二のヴァイオリン協奏曲をピアノで表現しようとしたのがラ・カンパネラだと言われている。だとしたらエリはこの1台のピアノでオーケストラを奏でたかったのかもしれない...リナはそう考えていた。深く染まりつつあるオレンジ色のうろこ雲の流れと光が、エリの演奏の世界をより一層幻想的に映していく。

終盤を迎え、エリの動きはよりダイナミックになっていく。だがその動きは精密で、わずかな曇りもない。指先の力強さにリナは見惚れつつあった。

曲が終わり、エリのピアノの音に吸い寄られたギャラリー達から拍手が上がる。指を2本立てて、エリはリナにアピールする。リナはそのアイコンタクトを受けて同じく2本の指を立て、指先をくいくいと曲げて合図を送った。

二人の間でピースサインではなく、「あと2曲弾くね。」という意思疎通がなされていた。

暗黙の了解の元、選ばれた2曲目はショパンの「革命のエチュード」だった。先ほどよりも更に軽快なタッチでエリは演奏を続けていき、次第と周囲には足を止める人が増えていった。ショパンの作曲した中でも高難易度と言われる約3分の演奏が終わる頃にはギャラリーは20人ほどに増えていった。動画を撮っている人にエリは手を振り、またピアノに向き直った。
最後にエリはショパンの「エチュードop.(オーパス)10-4」を3曲目として選んだ。リナの脳裏に大阪での地下鉄内の会話がよぎる。その中でエリはリストが、リナはベートーヴェンが好きだと話していた。

「今はショパンを練習してるんです。秋にはコンクールに出たくて。」

そう話したリナへの声援がこの2曲のエリの演奏に込められている気がした。

(エリちゃん...ありがとう...)

自然と感謝が溢れてきた。エリの目まぐるしく動く両手両指は圧倒的な技術を見せつけた。ストリートピアノでこれだけの演奏を聴けることはまずないだろう。気がつけばピアノをぐるっと囲むようにギャラリーの輪ができていた。演奏はクライマックスを迎え、一体感のある空気が自然と醸成されていた。これが音楽の持つ力である。

最後の激しい演奏を終えたエリは、リナに向かって両手を振った。拍手を浴びて立ち上がったエリは自分のバッグとエリのバッグを受け取り、リナへと席を譲った。
周囲の人々はエリの友人と思しきリナにバトンタッチしたことで、更に期待感を高めているようであった。先ほどのエリの演奏の後にピアノを弾こうと思う人間はこの場にはいない。ともすれば得体の知れないプレッシャーが掛かる場面である。

...はずもなかった。

リナがピアノに触れたのは2歳の頃、それ以来ピアノと共に生きてきた人生だった。人前での演奏こそ腕の見せ場である。リナにとって緊張で身体が動かないなど、ピアノに、ギャラリーに、そしてエリに失礼である。右手のひらを向こうに返して左手で抑え、ストレッチをする。左右の手を入れ替えて、軽く椅子に座り直す。

リナは息を吐き、そして静かに大きく吸って、歌うように最初の音を奏でた。その音でエリがぴくっと体を反応させた。果てしなく柔らかい音色は、エリのそれとは異なる世界を作り出し始める。曲はリストの「愛の夢 第3番」、一曲目にエリ同じくリスト作曲、約5分の曲を持ってきたことがエリへのアンサーであることは間違いなかった。
エリは腕を軽く組んだまま自然と笑顔になっていた、むしろニヤけていたと言っていいだろう。

「幸せ...」

エリは呟いた。優しさと想いがこもった演奏が暮れてゆく街並みをその音に染めていく。リストの愛の夢はその甘いタイトルにそぐわなないほど難易度の高い曲である。序盤は左手がせわしなく低音域を幅広く探り、中盤から右手でオクターブ違いのキーを主旋律として奏でる。随所に現れる両手が寄り添って細かな連符を奏でていく様子が、仲睦まじいカップルのようだと例える人もいる。しかし曲調の変化と共に次第に高い技術を求めてくる構成に、四苦八苦する人が多い曲でもある。
リナの指は左右に広がり、刹那に中央で重なり、繰り返し溶けるような愛の切なさを響かせていく。
造詣の深そうな聴衆の何人かは深く頷くながら演奏を聴いている。フィナーレを迎えてリナの呼吸はより大きくなった。弘法筆を選ばず。リナは自分の方法で伝えたい音をただただ重ねていく。そして、夕暮れの夢の時間はその第一幕を閉じた。
増えたギャラリー以上の拍手が沸き起こった気がしていた。リナの耳にも、エリの耳にもそう聞こえる。次の曲を待つ若者や動画を撮り出す女性に囲まれ、リナはエリをチラッと見て少し舌を出した。今度は間髪を入れずに、ショパンの「黒鍵のエチュード」を弾き始めた。リスト、ショパンという流れ、曲の長さもリナはエリに合わせていた。
しかもエリの「革命のエチュード」に対して「黒鍵のエチュード」。そこには言葉を必要としない意思のやり取りが交わされていた。ピアノの黒鍵部分の演奏が大半を占めるこの曲は、元々練習曲として作られたと言われている。白鍵より幅が狭い黒鍵を弾くためには例外的な指の運びを要する難曲でもある。だがリナは自分の家の庭を歩くように、何なく黒鍵の三連符を連ねていく。曲のテンポの早さに「おぉ」とざわめく声が聞こえる。

エリはそれを見守りながら目を細めていると、自分の近くに女の子が立っているのに気がついた。小学校の低学年だろうか、母親と一緒に手を繋いで目をキラキラさせながらリナの様子を見ている。

(そうだ。私はこれが見たかったんだ。)

リナの演奏が終わり一段と大きな拍手の中、エリも大きく手を叩いていた。

「ねー、ワンピースのウタが聴きたい。」

不意にその女の子が母親に言ったのが聞こえた。母親は困った顔をして首を振った。エリはその様子を見て、リナに声を掛けようとしたが、リナの手はすでに次の曲を奏で始めていた。

聞こえてきたのはウタの「新時代」だった。オーディエンスのざわめきが花冷えする心斎橋の空気を温めていく。リナはゆったりとしたリズムでオリジナルのアレンジを展開する。と思いきや、曲調が不意に変わった。エリはそれがofficial髭男dismの「サブタイトル」だと分かった。

(即興でメドレーか...いや、待って?これ???)

エリは二つのことに気が付いていた。一つはリナにも女の子の声が届いていたこと。おそらくは弾くつもりであったクラシックを置いて、即座に小さな心の声をリクエストとして受け止めたのだろう。

そしてもう一つは、これが単なる即興のメドレーではないことである。

(これってさっき流れてた曲...??)

久幸のジェラートで満たされた2人は黒門市場で好きな邦楽について語りながら歩いていた。その時、街中の有線放送で流れた新時代をエリが鼻歌混じりで歌ったのを思い出したのだ。

(そんで、その次に有線で流れたのがサブタイトルだったはず...ってことは次はハニワとスターマイン??)

エリの推察通り、リナはハニーワークスの「可愛くてごめん」、Da-iCEの「スターマイン」と続けていく。

(耳コピってこと??神対応過ぎるっ!?)

リナは1分少々のオリジナルメドレーを弾き終わると女の子の方を見て、

「リクエストありがとう!ねぇ、ピアノ弾いてみる?」

と声を掛けた。少女は頬を赤らめながらも、母親に背中をポンと押されてピアノへ駆け出して行った。リナは飛んできた少女を膝の上に乗せて、一緒にきらきら星を弾いている。少女は髪も瞳も、薄赤い頬も、小さな背中もリナに預けて笑う。その微笑ましい様子を眺める人、家路や目的地に向かう人、それぞれ散らばっていく群衆。
それぞれをぼんやりと見ながら、エリは目に涙を浮かべていた。その涙の理由は感動であり、羨望であり、そして嫉妬と悔しさでもあった。

未来のピアニストが奏でる人差し指のきらきら星は、珍しくこの街の澄んだ空気のてっぺんに、一番星を招いていた。優美な時間の終わりを迎えるに相応しいメロディの中、エリの頬を伝う雫達もまた美しかった。

第二十三話に続く



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