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連続小説「88の謎」 

第一話 Andante

「〇〇さん!」

公園の噴水からせせらぐ水の音を裂き、その声は辺りに響いて突き抜けた。私が反射的に振り返る間もなく、声の主は続けた。

「〇〇さん…僕×××です!」

私の身体に巻き付くように追いかけてきた声。その声は、パンプスとスカートを駆け登り、小さなフリルの付いたブラウスの山を越えて、驚く私の耳の先まで、あっという間に駆け上がってきた。目に映ったのが声の主だと分かったものの、私の視覚の正しさまで脅かしたその男の「声質」に、あらためて少し驚いた。

男の顔は決して若くはないが、どこかハツラツとした印象が見受けられる。随分と急いできたのだろう。肩で息をしていることを悟られまいとしているが、眉間に小さなシワが寄っている。笑顔の隙間に何気ない優しさを感じた。

おおよそ「昭和生まれの体育会系育ち、ノリの良い奴らは大体友達」というところか。大きな声で呼べばこちらに気がつくだろうというあまりに単純な意思を含んだその声に、むしろ私は食いついてしまったのかもしれない。今時珍しい…そんな面持ちで男を見返した。男は少し赤らめた顔を隠すそぶりもなく、やや早口で続けた。

「いつも配信楽しく見せてもらってます!あ…コレつまらないものですけど、良かったら受け取ってください!」

そう言って男は紙袋を差し出してきた。何かしらのプレゼントは予測の範疇だったが、挨拶もそこそこに手土産を渡すのは、ある種ステレオタイプなアプローチに見えてしまう。社会に飼い慣らされている姿をここまで丸出しにしなくてもいいのに…そんなサラリーマンの悲しい性を見せつけられているようで、私は少し気の毒な気持ちになった。
しかし、何もこのタイミングでなくても良いのでは?という私の思いは、ほどなく裏切られた。紙袋の中から姿を現したのはカラフルな風船でつくられたスヌーピーだったのだ。

「スヌーピー、好きですよね?」

何種類かの色の異なる細長い風船を組み合わせて作るバルーンアートなるものは知っている。ショッピングモールなどで剣や花の形をしたものを見かけたことはあるが、そのバルーンアートはあのスヌーピーそのものだった。

(スヌーピーなんてバルーンで作れるんだ!?)

素人が作ったものとは思えないのは一目瞭然である。その上で思わず本音が口から出た。

「これ本当に自分で作ったんですか?」

私は言葉にしてから「しまった」と思った。この男がバルーンアートを趣味としてることは、配信中の会話で何度か話題になったいた。差し出したものは他人が作ったという可能性は低い。しかも「本当に」などど巨大な疑問符まで用意してしまった。もっと気の利いた返し方がなかっただろうか?後悔はいつも気付いてからゆっくりと気持ちを押し潰すようにやってくる。そんな覚悟を瞬時に抱え、私が次の言葉を選ぼうとするより早く、男は口を開いた。

「よく言われるんですよねー。僕が作るようには見えないって」

その男は人懐っこい笑みを浮かべた。こちらに気を遣うような声のトーンに、つい申し訳ないと感じながらも、ホッとしてしまった。少し丸いこの声は敵ではない。きっとこれが彼の標準語なのだろう。

「違うんです…あまりにも上手にできてたので…すみません…」

ポケットから繋ぎ合わせる言葉を探し出そうとしたが、私は早めに白旗を上げることにした。社交辞令のひとつも言えなければ大人とは言えないが、無理をせず相手に預けてしまおうと思った。私なりの信頼の証だ。

「本当ですか?めちゃめちゃ嬉しいです!良かったー!喜んでもらえて!」

そう顔をほころばせる男を見て何やら懐かしいものを感じた。こんなに簡単に人を許してしまう彼の感情を理解するのは難しいと感じつつ、表情と声が一致していることに安心を覚えた。

「少し歩きませんか?」

男はいくぶん落ち着いた声でこちらを見て言った。私はコクリと頷いた。この声質も響きも悪くない。従おう。私は彼と肩を並べて歩き始めた。

私が住む街で彼と会うことになったのは、つい1週間ほど前だ。私が始めたライブ配信で、彼とは知り合った。3ヶ月ほど前から始めたライブ配信で彼はリスナーとして参加したのだが、いつの間にかSNSを介してお互いのことを話すくらいの仲になった。それ以上もそれ以下でもない関係…のはずだった。「一度会えませんか?」という彼からの誘いに、私は断る理由を見つけることが出来ず今に至る。もちろん配信を始めてから、そんな誘いは初めてのことだったのだが。

横断歩道に差し掛かって点滅した信号が赤になったことを確認した時、ふと自分がまだ名乗ってないことに気がついた。歩く速さのメトロノームを脳内で止め、神様がくれたタイミングだと言い聞かせて、私は彼を見据えた。

「はじめまして。リナです。カタカナでリナって書きます。」

第二話に続く

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