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連続小説「88の謎」 

第二十四話 xilofono

小学校の頃にMOMOは母親から離れて暮らすことになった。正確に言えば無理矢理引き離されたようなものだったが、かと言って父親の加護があったわけでもない。自分の力が及ばない理不尽な力が働いて、結局のところひとりぼっちになってしまっただけだった。
ラウンジの薄い照明は、時として心の分かりやすく繊細な揺らぎを、程良く照らしてくれる。だからこの音楽と空間に身を任せて働く日々が愛おしかったのだ。両親と妹、仲睦まじく過ごしてた記憶はとうにMOMOから切り離されていた。否、本当はどこかで不器用に紡いでいたのかもしれない。

「もう、こんな時間か...」

今日は考え事をしてたせいか、時の流れがいつもより早かった。昔からパッケージの変わらないチーズの賞味期限を確認し、業務用冷蔵庫に戻した後、慣れた手つきでクレジットの明細を取りまとめた。

ふとMOMOは携帯に目をやった。つい先日、恋人のタカシが使用している配信アプリで見かけた女性が、頭から離れなかった。

あれは間違いなくリナだ。

血を分けた妹。記憶の彼方に封じ込めようとして、けれども忘れることが出来なかった存在。誰よりも大切で、何者にも変え難い存在であった妹は、親の離婚でいとも簡単に二度と会えなくなった。事実を受け止めるに重ねた時間や思考がどれだけ自分の人生を支配しただろう。

「私がもっと強かったら、きっと守れた。」

MOMOは早くに家を出て、自立を目指した。自分の価値を問い、いつその時が来てもいいようにがむしゃらに働いた。故郷の大阪を離れ上京、人には言えぬような苦労もあったし、せっせせっせと東京の人となった。銀座の小さなラウンジのオーナーとなったのも、もし妹のリナに会えたなら、またゼロから2人の時間を紡ぐことができるように自立したいとの想いからだ。そんな風に生きてきたMOMOの、半ば止まりかけていた時計をアプリで見かけた女性が動かした。確証しかない。あれは間違いなくリナだ。

脳内に書き留めてたライバー名とファンマークと呼ばれる絵文字を、ダウンロードしたばかりのアプリで検索をしてみる。映し出された女性のプロフィールは何度も記憶の中で更新を重ねてきた面影そのものだった。僅かに自分の体温が上がるのを感じながら自己紹介を読み進めていく。

ディズニーとゆずが好きで、事務所所属ライバーであること。音大卒でピアノやエレクトーンを弾いたり、雑談配信をしてること。そして、

「Princess U "Chouten"にエントリー...」

連動するSNSから何かしら探れると思ったが、配信用のアカウントと思しきインスタには、これといって掲載されている情報はなかった。唯一残っているアーカイブを見ると、しっかりとした作りの防音室でピアノを弾くリナの姿があった。

「昔の家じゃ...ない...?」

ざわつく心の波紋を、その輪が広がらぬようにしっかりと抑えた。それくらいは想定の範囲内ではないか?
MOMOの母の大橋エリと父の平岡養一は離縁後全く連絡を取っていないようであった。MOMOは父の平岡性を名乗っていたが、リナの苗字は恐らく母親の旧姓のはずだ。果たして配信のアカウントやアーカイブから個人情報が探れる可能性が幾ばくかでもあるだろうか?

そんな心配をよそに配信は和やかに進んでいたようだった。巫女装束のコスプレを着たライバーは少し照れくさそうな笑顔を見せる。さまざまな褒め言葉が飛び交っているのであろう。嬉しそうに話す姿がMOMOには愛おしく感じられた。もう、きっとリナに間違いない。

気がつくと新聞配達がいつも通りビルの階段を駆け巡りながら、経済新聞をポストに投げ入れていったようだ。まるで軽やかなリズムで奏でられた木琴の如く、配達員は階段を駆け降りていく。もう既に地下鉄の始発が動き始める時間を迎えていた。MOMOは止まっては動く思考を束ねて、アプリ内で自分のプロフィールを入力していった。

(これしかない...この方法しか...)

この日、MOMOはリスナーとしてリナを見定め、そして見守ることを決めた。配信スケジュールを確認する。ラウンジという夜の仕事とリナの配信時間はほぼ重なる。予約のない時間帯でしか配信は聞けないが、何もせずには居られなかった。たまたま次の配信である水曜日はラウンジが入室しているビルのメンテナンスで店を休みにしていた。その日なら時間は作れると思った。

ふとアーカイブのラストで、MOMOはあることに気がついた。

「え!?このぬいぐるみって...!?」

リナがリスナーに手を振りながら、左手で抱えていた小さなぬいぐるみに見覚えがあったのだ。
いや、正確に言えば見覚えなどではない。明らかに知っていて、見間違えるはずのないものであった。

「私と...同じぬいぐるみを持ってる...」

堪えきれずMOMOは泣いた。どのような経緯か知らないが、このぬいぐるみを持つ人間があちこちにいるはずはない。途切れそうな糸が結ばれ、遠く過去から今を繋いできたのだと感じた。アーカイブの終わった携帯の画面は、MOMOの両目から溢れ出た涙で濡れていた。鼻水を啜りながら、モモはラウンジの全ての電気を切り、少しうずくまった。

「ありがとうリナ...やっと見つけたよ…待っててね…」

嗚咽を堪えながら携帯を強く握りしめたMOMOに、どこかで響いた始発電車のベルは決して聞こえることはなかった。

第二十五話に続く

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