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連続小説「88の謎」 

第九話 Impaziente 

リナは洗面台の前で髪を後ろで縛り、ふぅ、と息をついた。鏡に映った自分はなんだか別人のようにも見えた。

(私、泣いてないよね?)

少し衝撃はあった。というか誰でも真顔であんなこと言われたら大体ビックリするはず。

「なんで...」

昼にカフェでひとしきり盛り上がったところまで記憶を遡る。書店を巡って文庫本をお互いに一冊ずつ買ってプレゼントし合った。百貨店をぐるりと回って、ぴろに似合いそうなネクタイを1本選んだ。前もって決めていた映画を一緒に見た後が、その日のメインイベントになっていた。予約した天ぷら屋で早めの夕食を取ることがにしたのだが、その店というのがリナの母親の店だったのだ。

実はリナの実家は創業80年以上続く「久幸(ひさこう)」という名の老舗天ぷら屋だった。以前は道頓堀のビルの2階に位置していたが、リナの母親に代替わりするのを機に近くの黒門市場に場所を移している。
新店舗は一見天ぷら屋とは思えないバーカウンターの構えと、明るく清潔感のある内装で、古くからの常連達を驚かせた。天ぷらだけでなく、コース料理には野菜のテリーヌや中華風の前菜や冷製スープなどがあり、財界の著名人や政治家、芸能人の舌を唸らせてきた店だ。
そのお店に2人で食事をしようということになったのだ。いざ店に入るとリナの母親が丁寧なお辞儀で待っていた。
「いつも娘がお世話になってます。どうぞお掛けください。」
阿吽の呼吸でリナが席へ案内し、2人はカウンターに並んで座った。リナの母親が揚げた天ぷらを食べながら、今日見た映画の批評をしたり、リナの小さかった頃の話に花を咲かせていた。まだ時間が早く他の客もいなかったため、次第にリナの母親を含めて井戸端会議のように話し込んでいった。お互いが初めて会ったとは思えないほど楽しく、あっという間に時間が過ぎた。リナは充実した朗らかな休日を満喫した。

...はずだった。

食事が終わってリナの母親がに「記念に」と、ぴろと二人で並んだ写真を撮ってくれた。照れくさくて仕方なかったが、滅多にこんなことはないと思い、引きつった笑顔を残してきた。そして、駅まで見送る途中にその「事件」は起きた。

近道で公園を通り抜けようとした時に、ぴろが急にハグをしてきたのだ。

「えっ!」

思わず声が出た。振り解けない強さではないが、なんとも気まずい。ぴろが先に言葉を発した。

「リナさん...結婚してください。」

初手プロポーズ??え?どーゆーこと...?さすがに脳内が混乱した。日頃から冗談が多いぴろではあったが、至って真面目な顔をしてる。

(何考えてるんですか????)

混乱の中で、ゆるり、とぴろの手が解けた。途端、リナも緊張の糸が緩んだ。ホッとしたが、変わらずぴろはこちらを見据えている。足元が少し沼にハマったように、カラダが動かなかった。

「リナ……ダメかな?」

懇願するわけでもなく、試すようでもない。そのトーンはリナを逆に冷静にさせた。横断歩道で手を繋がれてから、ぴろを「ズルい」と思っていた。けれども、ぴろの思考の本質は別のところにあるのかもしれない。性急ではあるものの、決して不誠実ではないと、なぜか感じるようになっていた。

「ぴろさん...結婚するにはひとつ問題があります……それは年齢です。」

リナはそう言い切った。歯に絹は着せない。それが本心で濁りのない言葉だと思ったのだ。
小さな頃から天ぷら屋さんの後継ぎと嘱望され、お客さんの前で挨拶をさせられていた。やがて店の手伝いをしている内に接客を覚え、多少の無理難題なら卒なく対応出来るようになった。
時にはリナに言い寄ってきたり、そっと携帯番号を渡してくる客もいた。そんな時でも、そこら辺のクラブのママより気の利いた返答が出来る自信もあった。ゆっくりとリナはぴろの表情のない顔を見つめて続けた。

「さすがにこの歳の差だと結婚って厳しいですよねぇ。それにえーと...えー、それ以外は...うーんと...」

ありゃ?おかしい...他に何かいうことなかったっけ??あー、そうだそうだ。ぴろさんは名古屋だし、私は大阪だから遠距離恋愛になるんじゃなかったっけ?いや、結婚するならそんなの関係ないか。そしたらアレだ。猫アレルギーの私が猫を飼ってることに理解を示してくれないと...ん??アレ...私は何を...????

と、そこでリナの目が覚めた。見慣れた天井と枕元のクマのぬいぐるみで全てが現実に引き戻されたことに気付いた。

「...くぅ...夢かぁぁぁぁっ!」

リナは思わず叫んだ。壁の時計を見ると23時を少し回っていた。記憶を整理すると、確か久幸の前でぴろとツーショットを撮って、そこでぴろを見送った後、少し店内の片付けを手伝って家に真っ直ぐ帰ってきたのは覚えてる...そっか、うっかりベッドでうたたね寝してしまったのか...

「なーんだ...ははっ...」

思わずホッとした。夢とはいえ身動きが取れなくなるようなシーンはあまり良い気がしない。しかもなぜプロポーズ??もっと他のシチュエーションがあってもいいはずだ。リナはくしゃくしゃになってた布団にワンパンした後、掛け布団を一旦丁寧にたたみ、化粧を落としに洗面台に向かった。髪を後ろで一つに束ねた時、リナはふと自分の顔が泣いているように見えた。

いや、リナは確かに泣いていた。

近くのリビングから母親が聞いているサザンオールスターズの真夏の果実が流れている。

「まだ春...夏はやだなぁ...」

リナ誤魔化すように呟いてから、クレンジングを顔につけ、化粧と過ぎた時間と幻を洗い流した。泣いていたことにも、日付変更線を跨いでいたことにも気付かなかったリナは、ある一つの過去を思い出していたのであった。

第十話に続く


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