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連続小説「88の謎」 

第五話 Espressivo

ハンドルネームの「ぴろろ」を「ぴろさん」と呼び始めたのは、彼が配信に来るようになって程なくだった。その「ぴろさん」は、リナとは干支で2周ほど離れている年上の男性ではあったが、年齢にそぐわず近い世代のように感じさせることが度々あった。
同年代の話題やトレンドだけでなく、配信そのものに関わる情報に詳しく、配信中に打ち込まれるコメントのスピードも比較的早かった。単純にコミニュケーションを取りやすい相手だったということなのだろう。次第に配信に来ているのが当たり前の存在になっていた。だからといって初めて会う男性と手を繋いで歩いているという状況はいかにもではあったけれども。

(それこそフォークダンス以来では?)

アレはアレで奇妙な儀式のように思える。男女ペアで相手を変えて踊る姿は、どうにも日本の文化に合わない気がしてならないのだ。思考をワザと寄り道させた後、リナはあらためて礼を述べた。

「さっきはありがとうございました。私、大きな音とか、ビックリさせられるのが苦手なんです。ほら、雷とか。」
「あー!そっかそっかー。元々耳が良いから音に敏感だって言ってたよねー。」

ピアニストである私は物心ついた頃からピアノの前に座っていた。幼少期から習い続けたピアノは、今の私になくてはならないものだ。シングルマザーでありながら後押ししてくれた母のお陰で、20年以上ピアノを弾くことができた。関東の音大を無事卒業するまで、毎日ピアノ漬けの日々を過ごせたのは、本当に母の愛あってのことだと思う。
ただ、ぴろのいう「元々耳が良い」は少し間違っている。生まれつき耳が良いのではなく、訓練によって音感が身に付いた、というのが正確である。まあいずれにせよ普通の人が聴こえる音と私が耳を通して感じる音には、言い表わし難い圧倒的な違いがある。音には色があり、音には生がある。それを聴き分けられるかどうかは生まれ持った素質ではなく、どう修練を重ねてきたかによって決まる。私はそう思っている。

昼の12時を告げるチャイムが鳴り始めた。少し音のズレたこの街の響きは、何年経っても好きにはなれなかった。

「もうこんな時間だね。ご飯にしよか?近くに気になるお店を見つけたんだ。古民家カフェっぽいとこだけど。」
「はい。」

私は素直にぴろについていくことに決めた。しかし異性と2人での昼食などいつぶりだろうか?ふとここしばらくの自分の生活の慌ただしさを思い返した。もう25歳にもなるというのに、世間でいうアオハル的な出来事は決して多くないように思えた。決して今まで彼氏が居なかった訳でもないし、それ相応の恋愛経験も重ねてきたつもりだった。

ただここ数ヶ月は日々のタスクをこなすことに精一杯だった気がする。ぴろの「会おう」という誘いを受けたのは、何かしらの変化を求めていたのかもしれない。マンネリ化した人生は、自分には似合わない気がしている。だからライブ配信を始めてみたのだった。私は人生の挑戦者(チャレンジャー)であるべきだと心に誓っている。

住宅街の近くまで歩き、さすがにずっと手を繋いで歩いていることに恥ずかしさが込み上げてきた。

「あ、少し良いですか?」

パンプスの踵を気にするフリをしてそっと手を解いた。人間が選ぶ無限の選択肢の中には絶対というものはないけれど、それでも今はこの方法が自然だと思えた。事実、慣れない靴は少し痛かった。金具がズレてるようだったので手直しして立ち上がった。ぴろがそれとなく分かるトーンで一言だけ発した。

「ごめんね?大丈夫?」

何やら少し悪い気がした...いやいやいや、待てよ私。私は何も悪いことはしてない。横断歩道を渡り切ってからも手を繋ぎ続けたこのズルい男がいけないのだ。余計な同情を抱えて、今まで何度も苦い思いをしたことか。

「こちらこそすみません。」

型通りの言葉を返して、鞄を相手側に持ち直す。即席のATフィールド完成だ。ちょうど目的のカフェは目の前に迫っていた。最近出来て私も気になっていたお店だ。古民家風の佇まいに小洒落た看板が下がっている。期待出来そうだ。

「いらっしゃいませ。」

店員さんが清楚な私服で出てきた。うん、申し分ない。こういうところにセンスは表れる。窓側の席に2人で座り、気の利いたキャプションの付いたメニューを眺めた。少しテンションが上がる。

「リナって好き嫌いあったんだっけ?」
「あ、結構ある...かも?辛いのとか、生魚とエビやカニが食べれないです。アレルギーで...」
「そうなんだ。じゃあ肉とか野菜は大丈夫?」
「ええ、マルです。野菜大好きなんで。」

私は両手で小さく円を作った。食べ物の会話は楽しい。際限なく話せる気さえするし、余計なことを考えずに済む。もちろん相手は選ぶが、美味しいものを食べながら誰かと話をする時間は何よりも貴重だと思う。
先に運ばれてきたアールグレイのグラスの可愛さに思わず声を上げそうになった...というか上げていた。

「なにこれ...かわいいっ!」

少し笑顔を浮かべる店員さんに会釈をして、この後に待つ料理に期待を寄せた。

「ぴろさん、良いお店見つけてくださってありがとうございます。」
「すごくオシャレだよねー。リナに喜んでもらえて良かった。」

その後の料理もデザートも申し分なかった。素材や作り方をアレコレ予想しながら、携帯で写真を撮ったり器を色々な角度から眺めたりした。楽しい。ただひたすら楽しいと思った。こんな時間は本当に久しぶりだった。同時にここしばらくの忙しなさをあらためて振り返る。

「そう言えば配信、めっちゃ頑張ってるよね。」

ぴろが口を開いた。そう言えば配信に来るリスナーの数がここ1週間で急激に増えたのだ。

「いえいえ、ぴろさんがあちこちに声かけてくださったからです。たくさん気を遣ってくださって...」
「いやぁ、リナのピアノとトークのおかげだよ。みんな楽しいって喜んでくれてるし。」

ぴろは配信サービスを利用して2年ほどになるという。リスナー仲間も多く、時々その仲間を連れて配信を視聴してくれる。その仲間がさらに仲間を連れてくるという好循環が続いていた。

「ちょうど運営から新しいイベントがリリースされるらしいって情報が回ってきたんだよね。」

ぴろは携帯の画面を指して続けた。

「女性ライバーの特技を競い合う全国大会が始まるんだって。大手芸能事務所と広告代理店がタイアップしてて、そこで優勝するとドラマとCMデビュー出来るって噂なんだ。」

画面には赤いビロードの背景に金色の文字で筆記体で『Princess U ”Chouten”』と書いてある。

「えー?なにこれ...プリンセス...有頂天!?」
「いや、『プリンセスユー 頂点』って読むらしいよ。」
「あ、ウソ...」

顔を見合わせて二人で吹き出した。単なる読み間違えと言いたいところだったが、よく考えずに言葉にしてしまった。食事でマスクを外していたせいで喉の奥が見えてしまいそうなくらいケラケラと笑った。奥から店員の気配を察してすぐに収めようとしたが、一度ツボに入ってしまったものは簡単に抑えられなかった。リナの表情豊かな笑顔に釣られて、ぴろもまたつい笑ってしまっていた。店員はその笑顔の行方を優しく見守っていた。

第六話に続く


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