「信じる」、「裏切られる」

人は1つぐらいなにかを信じて生きていることだろう。
パートナー、両親、宗教、科学技術、安全、など多岐にわたる。

これを見てくれている皆様も、
今お使いのスマートフォンやPC(それらに付随する技術でも良い)を信じているからそれらを使っているのだろうと思う。
安全性、情報の正確性、利便性、なんでも良い。

例えばそのスマートフォンの電波を中継している基地局が
原因不明の事故により壊れたとする。
そうすると人によっては、
キャリア会社にたいして「なんで使えないんだよ」「○○はやっぱダメ」みたいな感想を得ることだろう。
普段使えている時には何も思わないことが多いだろうに、
結果が悪いものになると反応が過激になる。

「信じた」結果が悪いものになると、人は「裏切られた」と感じ、
人によっては落ち込み、憤り、混乱する。
今回は物を例としたが、信じている対象が人でもまぁ似たようなものだろう。

さて、では「信じる」ってなんだ?と考えてみてほしい。
人それぞれ答えはあると思う。

私の答えは、「自分自身が対象に向ける勝手な期待」であると思う。
期待どおりに動いているうちはシメシメと思うだけで、
トラブルがあると「期待はずれだ」と思うのだ。
そして同時に思った。
「裏切られた」のは何にか。
それは自分だろうな…と。

そうしたとき、次の疑問が私のなかに生まれた。
「自分自身の勝手な期待を対象に抱いておいて、
裏切られたと感じて対象に苛烈な反応をするのはおかしくないか?」
それは、信じているのか?と私は考えた。

極端な例だが、
「お前は総理大臣になると思っていたのに!裏切りやがって!」と
自分が誰かに言われたとしよう。
なお、自分は総理になるなどといった覚えはないものとする。
総理大臣は、公職選挙法やらなんやらの縛りはあっても、
一応、日本国民ならなれる職業だ。
可能性論で行けば確率は著しく低いといわざるを得ないが、
不可能ではない。
しかしながらそんなことでキレられても困るだろう。

これは私の思う、信じる、という言葉ではないなと思った。
なので、私は自分の中での「信じる」という言葉の意味を変えることにした。

「信じる」とは、「許す」ことだと考えることにした。
自分が勝手に期待したのだ。
結果がよかろうと悪かろうと「許す」そうしないと、
自分でも行き場のない怒りや悲しみを抱えてしんどくなるだけなのだ。
負の感情としての怒りや悲しみにとらわれていても何もいいことは無い。
状況は改善しないし、無駄に体力を取られるだけなのだ。
であるなら別のことに時間も体力も使って状況を改善するように頭を使ったほうが生産的だ。

特にこれ以上言いたいこともないのでここで筆をおきたいと思う。
皆さんの「信じる」とはなんでしょうか?


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