何か許せるようになる1つの考え方の例

私はある時、
今の自分の状況は、全て自分の選択の結果である
ということを学んだ。

そんなことはあたりまえだろうという話ではあるのだが。
自分の選択の結果の責任は自分で持つしかないのだ

これは決して、
そういう風に自分を追い込めとかそういう意味ではない。

ここから下に私の考え方を記載する。
先に言わせてもらうが、
あくまで私の考え方であり、
これを誰かに強要したこともないし、
強要しようとも思わない。

こう考えるようにしたら楽になったぞ、というだけである。



愚痴とか言い訳


私のたいして長くもない人生において、
自分の口から出る言い訳も、他人の口から出る言い訳も
大概、その人から見た他人や状況に対しての愚痴だ。
「自分のせいではない、コイツが悪いのだ!」という主張でしかない。

その主張は頭によぎってしまったが最後、自分の心を蝕む。
蝕まれた結果、隠しているつもりでも必ずどこかで歪みが生じる。
小さな歪みは別のところでまた歪みを生じさせ、
最終的には自分をさらに大きく歪ませるかもしれない。
口に出して他人に言おうものなら収集のつけようなど最早ない。


選択とは


自分で何かを選ぶこと、はもちろん選択だと思う。
アレをする、コレをしない、こうする、ああする。
自分で何かを決めて自分で選ぶことは選択だ。

しかしまた、
選ばないことも選択である
選択しない、ということを選択したのだと。
最近のゲームの選択肢でも時間切れを待つという選択肢があるのだから、
要はそういうことである。


選べなかった?


状況や場面によって、選べなかった、ということが存在する。
既定路線というやつだ。

先に伝えておきたいのは、
強要されたというのは勘案される事案だと思うし、
選べなかった、という主張を否定するわけではない。

でもその、選べなかった、というのも、
最終的には、選べない状況を受け入れた自分の選択である。


選択の結果の責任は自分で持つ


上記のように考え、結局は全部自分が選択した結果なんだなと思うと、
「~だけど、~だよ」とか
「あの人が~」とか、口に出る頻度が減った。
代わりに、
「~するにはどうしたらよいか」
というのをよく考えるようになった。

過去、私も愚痴や言い訳を繰り返したことがある。
それらの揺り戻しが自分に返ってきているところもある。
それらも、結局は自分が選択した結果なのだ。

自分以外のところに原因を求めても何もしようがない。
いろいろ考えた結果、環境に原因があるなとなれば、
自分からその環境を離れるか、環境を変えなくてはならない。

今に至るまでの全ての選択が、今に至った自分の結果なのだ。
よくよく考えて選択して生きていきたい。


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