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鉄道が世界を変えた③ 戦争

【南北戦争】

1800年代初頭に産声を上げた鉄道は、すぐに戦争の道具となった。
なににしろ人と物資を大量に、短時間に移動させることのできる鉄道は、戦争の様相をがらりと変えてしまった。

それが最初に顕著に表れたのが、1860年代にアメリカで生じた南北戦争だった。

南北戦争とは、工業の発達した北部と、プランテーションン農業が産業の中心であった南部との争いである。
リンカーンが1861年に大統領に当選したタイミングで、南部諸州はジェファーソン・デイヴィスを独自に大統領として選び、アメリカ「合衆国」でなく、アメリカ「連合国」を結成し、南北戦争が始まった。

以下は、Wikipedia「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事中の、「南北戦争と鉄道」の項目を下敷きに、鉄道が戦争に及ぼした影響を箇条書きにしたものである。
と言ってもその多くが、南軍側の敗因の羅列となる。

①   それまで軍隊は徒歩での移動が基本で、長い時間と休息を必要としたが、鉄道は大勢の兵員を短時間に移動させ、休息させずに即座に活用することができた。

②   大砲などの大きくて重い兵器も貨車に載せて運び、大量に展開することができた。これは戦死者の増大につながった。史上初の列車砲である「ディクテイター」も登場した。

③   開戦時点で北部の方が圧倒的に鉄道網は発達しており、総延長距離で3倍の差があったほか、保有車両数でも顕著に差があった。南部で最も鉄道が発達したバージニア州全体の車両数よりも、北部の二都市、フィラデルフィアとピッツバーグを結ぶ鉄道が使用する車両の数の方が多かった。これらの差が戦局に影響した。

④   北部ではバラストが敷設されていたのに対し、南部ではレールのほとんどが地面に直接敷かれていた。そのレールが木製という場合もあった。つまり列車を支える土台であるレールそのものが貧弱であった。

⑤   南部の鉄道は軌間がばらばらで、移動するのに何度も乗り換える必要があった。

⑥   南部の鉄道の部品は大部分、北部の工場からの供給に依存していた。南部にあった機関車の数少ない修理工場も、開戦後は武器弾薬の生産工場に転用されていった。

⑦   南部では保線やメンテナンスをする労働力も不足し、列車は開戦時点でも時速25マイル(40 km)以下で走っていたが、戦争末期では時速10マイル(16 km)がやっとであった。

⑧   南部の鉄道網の貧弱さは、至る所で人員と物資の輸送の混乱を招いた。バージニア州の兵士が飢えで苦しんでいるのに、隣のノースカロライナ州では食料が集積し、腐っていくままにされていた。

⑨   南部連合国議会では鉄道網を充実させる法案が承認されたが、鉄道会社間の対立があり、計画はほとんど進まなかった。効率化を促すため、南部のデイヴィス大統領が鉄道を国有化する法案に署名したのは、敗戦直前の1865年3月であった。

⑩   戦闘では互いに相手方の線路の破壊などを活発に行ったが、部品調達力に優れた北部は復旧をすぐに行っていった。

⑪   北軍の兵士が南軍の支配地域に潜入し、南軍の蒸気機関車「ゼネラル号」を奪って逃走したこともあった。北軍側は追跡を妨害するため、貨車を線路上に放置したり、線路を破壊したりしながら逃走を続けた。南軍側は機関車「テキサス号」の逆行運転により猛追。雨で木造の橋が濡れていて破壊工作に難渋している北軍兵たちを捕らえた。この出来事は「機関車大競争」として知られる。

⑫   南軍は戦闘で敗れると、撤退時に鉄道施設を徹底的に破壊して去っていったが、進軍した北軍側は大量の人員と部品の供給を背景に、それらを即座に復旧していった。

⑬   南北戦争最後の戦い「アポマトックス・コートハウスの戦い」では、南軍のための補給物資を積んだ列車が北軍に押さえられたことを聞いたリー将軍が、最終的に降伏を決断した。

⑭   中西部では南部の主張に同情的な人も多かったが、北部の都市と鉄道によって結ばれていたことから経済的には北部と密接な関係があった。戦争中、これらの州は北軍への食糧の供給を続けた。鉄道によって北部と西部の関係は深まり、のちの大陸横断鉄道へとつながった。


【日清・日露戦争】

1872年(明治5年)に鉄道を導入した日本は、その後急ピッチで鉄道網の拡充を進めた。
明治の有名なスローガン「富国強兵」を促進するため、鉄道は欠かせないものだった。

日本の陸軍は最初、フランスをモデルとして近代化を進めたが、フランスがドイツ(プロイセン)に敗れてからは、ドイツを手本としてあおぐようになった。

その頃、ドイツは強かった。
普墺戦争、普仏戦争などで勝利を収め、強国に一気にのし上がったが、その勝利の裏には政治の天才ビスマルクと、参謀総長モルトケの戦術があった。

モルトケは鉄道を戦争に最大限活用し、画期的な「分散進撃」を行い、迅速な人員と物資の展開によって勝利を重ねた。
軍の中に「鉄道部」があり、戦時における鉄道の活用についての研究と演習が続けられた。

このモルトケの弟子にメッケルという人物がいる。
明治日本の軍部育成のため、プロイセンから招へいされたお雇い外国人だった。
メッケルの軍制改革がどれほど日本の鉄道に影響を及ぼしたのかは分からないが、軍部は鉄道網の拡充に際し、常に口を出していた。

海岸線に近いと砲艦射撃にさらされるため、線路は内陸に敷設するようにとの要請や、横須賀、舞鶴、呉といった軍港とを結ぶ路線の整備などの要求が出された。
日露戦争後は、軍部からの要請で鉄道国有法が成立し、日本全国に国有の鉄道網が広がった。これが後の国鉄、そしてJRへと引き継がれるのである。

軍部は、発電所や変電所が攻撃されると動かなくなるとの理由で、電車の導入にも反対だった。
鉄道が非電化の場合、線路の破壊だけであれば比較的早く復旧できた。

1894年6月、神戸から西進していた山陽鉄道が、広島まで開通した。
すでに日本鉄道が上野から青森まで、官設鉄道が新橋から神戸まで開通していたので、日本の多くの場所から鉄道で広島まで行けるようになった。
広島は当時、大規模な練兵場を備え、全国の師団が集結し、一大兵站基地へと変貌を遂げていた。
そして直後の1894年7月、日清戦争が勃発する。

8月には陸軍の要請で広島の海の玄関口、宇品港までを結ぶ宇品線が突貫で整備された。
そしてそこから朝鮮半島や大陸へ、人や物資がどんどんと送り出されるようになった。
日清戦争の日本の勝利の一因は、短時間での大量動員にあった。

広島はその後も、第二次世界大戦で敗戦するまで重要な軍事拠点であり続けた。
宇品駅はホームの長さが563mもあって、現在日本一である京都駅の1番ホーム558mよりも長かった。
宇品地区には100軒の飲食店、80軒の宿、300人の人力車夫などが集まり、大いに繁盛した。
地元第五師団の出兵の際は、見送りのため13万人の人でごった返した。
(宇品港、今の広島港は離島とを結ぶ小さなフェリーが発着する程度のいたって静かな港である。
出兵の町として栄え、一大軍港だった頃の面影はどこにもない)

日清戦争の後、ロシアはシベリア鉄道の建設を進めると共に、清との密約によって軍港であるウラジオストックまでを結ぶ東清鉄道を完成させた。
さらに、これも戦略的超重要軍港である旅順まで支線を伸ばしたことで、いよいよ危機感を強めた日本は対露戦争に踏み切った。

戦争が始まると、朝鮮半島では釜山(プサン)と京城(現在のソウル)とを結ぶ路線の建設が突貫で進められ、1905年1月に暫定的に開通した。
これが現在も韓国の大動脈となっている京釜(キョンブ)線であり、日本の東海道線に相当する。

旅順を陥落させてからは、ロシアが建設した鉄道を活用して北上するはずだったが、ロシアの鉄道は1520㎜の広軌であったことから、中国で徴発した車両(標準軌)も、日本から持ち込んだ車両(狭軌)も走らせることができなかった。
結局、日本軍はロシアの建設した路線をことごとく狭軌に改軌していき、日本から持ち込んだ貨車などを走らせて人員と物資の輸送を行い、ロシア軍を追って鉄道で北上した。

1905年2月に行われた奉天会戦では、双方合わせて60万が対峙する世界史上最大級の戦いとなったが、そこまで大規模な戦闘になったのは、鉄道によって両国とも兵員の輸送を極限まで行ったからだった。

もとより、日本の勝利は日本海海戦など鉄道だけが要因ではないが、鉄道による迅速な人員と物資の広範囲の展開が勝利に貢献したことは疑いない。

日本軍は戦後、ベルリン郊外で隠棲中のメッケルに宛て、戦勝の報告と感謝の電報を送ったという。
日露戦争における日本軍の行動は、メッケル戦術の直訳と評される。


【大東亜縦貫鉄道】

20世紀に入っても、国家間の競争における鉄道の重要性は揺らがなかった。
そして世界の指導者たちは、鉄道によって自国の領域が結ばれた世界を構想、または夢想するようになる。

イギリスは植民地であるカイロ・ケープタウン・カルカッタの3都市を鉄道で結ぶという、3C政策を推進した。
これに対しドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、ベルリン・ビザンティウム・バグダードの3都市を鉄道で結ぶ3B政策を主導し、イギリスとドイツの権益は激しく対立した。

日本は韓国を併合し、さらに満州地方に権益を伸ばし、日中戦争が始まってからは大陸の奥深くまで侵攻したので、これらの地域の重要諸都市を直通で結ぶ鉄道を構想した。
それは東京から標準軌の路線を新たに建設し、対馬海峡を海底トンネルで通り、朝鮮半島を北上して満州の首都新京、途中で分岐して北京まで結ぶ「弾丸列車計画」というものであった。
東京・新京・北京の3京政策である。

これより前、1938年に鉄道省の鉄道監察官が「中央アジア横断鉄道計画」を発表していた。
それはソ連のシベリア鉄道に対抗するため、新たにアジアとヨーロッパとをつなぐ鉄道を建設するというもので、西安から出発してパミール高原を横切り、アフガニスタンの首都カブール、イランの首都テヘランを経てイラクの首都バグダードにいたり、バグダードからはドイツの3B政策による鉄道でベルリンまでを結ぶという構想だった。
1936年に日独防共協定が締結されて以来、日本とドイツは同盟国であった。

太平洋戦争に突入してからは、大東亜共栄圏の確立のため、「大東亜縦貫鉄道」が構想された。
それは東京から北京につなげた鉄道をさらに南下させるもので、ベトナムのサイゴン、タイのバンコクも経由し、最終的にマレー半島の先端、シンガポールまでをつなげる構想である。
戦争中、国家の上層部でこれらのことが真面目に議論されていた。

これらの構想はもちろん、日本の敗戦によって日の目を見ることはなかったが、国内の用地買収は一部行われ、海底トンネルも開削の具体的な検討まで行われていた。
弾丸列車計画は、戦後の新幹線構想へと受け継がれた。
国外においてはタイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道など、ほんの一部は実現したが、その後廃線となった。敗戦で廃線となった。

多少不謹慎を承知で言うと、もし日本が勝っていたら、これらの鉄道は実現していた可能性が高い。
東京から朝鮮半島を経由し、中国大陸を南下し、東南アジアの国々を歴訪する列車旅だ。
対馬海峡の海底トンネルは当時の技術では難しかったかもしれないが、日韓が併合したままであったなら、青函トンネルの開通から遠からずして、実現していたであろう。

このように振り返ると、戦争が鉄道を発展させてきたことは否定できない。
戦争がなければ、路線網の広がりや鉄道技術の発達は、もっと緩慢なものだっただろう。
しかし本来鉄道は、日本の今の状況が示すように、戦争という要因がなくても発展するものだ。

将来は、国境のない世の中で、世界中のあらゆる都市を結ぶ鉄道が存在しないものかと思う。
その時、乗り鉄の夢が真の意味で実現する。








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