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ザビエル 栄光と挫折の日々

日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエル。
特に歴史に興味がなくても、日本人なら誰でも知っている人物だ。
 
ザビエルはイエズス会の宣教師。
イエズス会とは、当時ヨーロッパで隆盛を始めたプロテスタント運動に対し、危機感を抱いたローマ・カトリック側が結成した精鋭組織である。
 
彼がパリ大学留学中に、イグナチウス・ロヨラの主導によって結成され、ザビエルも7人の創設メンバーの一人に名を連ねた。
 
後に、ポルトガル王ジョアン3世に依頼され、ザビエルはインドのゴアに布教のため派遣されることになった。
当時は大航海時代で、スペインがアメリカ大陸へ、ポルトガルがアジア方面へ盛んに進出していた。
 
ザビエルはインド各地で布教し、ポルトガル領だったマラッカへも足を運んだ。
そこで、ある日本人と出会うのである。
 
【鹿児島へ上陸】
 
日本人ヤジロウは、薩摩の武士であったと思われるが、喧嘩がきっかけで人を殺めてしまい、当時薩摩に来ていたポルトガルの交易船に助けを求めて国外へ脱出し、マラッカまで来ていた。
 
しかし彼はキリストの教えに触れ、自分の犯した罪について悩むようになり、ゆるしを求めてちょうどマラッカに来ていたザビエルのもとへ出向いた。
 
ヤジロウから日本について聞いたザビエルは、そこでの布教を決意。
ジャンク船(木造帆船)にヤジロウと共に乗り込んで日本を目指した。
 
船はまず、ヤジロウの出身地である薩摩半島の坊津に接岸した。
1549年、ザビエル43歳の時だった。
ちなみにこの年、織田信長は16歳、豊臣秀吉は13歳、徳川家康は8歳である。
 
その後、薩摩の大名である島津貴久に謁見し、布教の許しを得た。
鹿児島での宣教はヤジロウの通訳に頼っていたが、その訳は仏教用語が頻出する、おおよそ聖書の教えとはかけ離れたものだった。
人々はザビエルを仏教の本場、天竺(インド)から直接やってきた仏教の偉大な僧侶だと思い、方々の寺からも大歓迎を受けた。
 
当時は、基本的に仏教以外に外国から入ってきた宗教がなく、キリスト教由来の語彙は皆無だった。
ヤジロウがザビエルの教えを日本語に訳すのに大変苦労し、わかりやすくするために仏教用語を使った、というのは無理からぬ話のように思える。
 
ザビエルは気をよくして布教の手ごたえを感じ、国中に教えを広めることを願った。
それで鹿児島のことはヤジロウに託し、京を目指して旅立つことにした。
 
ちなみにヤジロウはその後、キリシタンの教えが禁令となり迫害の波が強まると棄教し、最後は海賊として中国での活動中に戦乱で死亡したという。
 
【京を目指す】
 
イエズス会の布教方針は、まず支配者を改宗させることにあった。
それに成功すれば、そのもとにいる民は自ずと改宗できる、というわけである。
 
実際、中国へ赴いたイエズス会士のマテオ・リッチは、明の万暦帝に謁見し、その後も宮廷で仕え続けた。
 
ザビエルも日本の支配者に会い、改宗させることを考えた。
しかし当時はなにぶん戦国時代である。だれが支配者になるのか、まさに国を挙げて争っている最中であった。
 
しかし京に天皇という存在がおり、そこが長い間都であることを聞き、ザビエルは天皇に会おうとして、平戸、山口、堺を経て京へ向かった。
 
しかし当時の天皇、第105代後奈良天皇は、この南蛮人に会おうとしなかった。
室町幕府の権威も失墜し、荒廃していた京の御所の門の前で、ザビエルは朝から夕方まで何日も立ち続けたが、願いはかなわなかった。
失意のうちに、滞在11日間でザビエルは京を去った。
 
しかし京にいる間、彼は世話をしてくれた小西隆佐(小西行長の父)に教えを説いていた。
この時に蒔かれた種は後に、「河内キリシタン」という一大勢力として実を結ぶことになる。
 
【山口での布教の日々】
 
その後ザビエルは、山口に拠点を構えるようになる。
 
支配者や有力者に会い、便宜を図ってもらうには、献上品が不可欠であることを理解したザビエルは、周防の大名、大内義隆に謁見する際に美服をまとい、望遠鏡、洋琴、置時計、ガラスの水差し、小銃など、海外の珍しい文物を多数献上した。
 
この時の献上品の一つである眼鏡は、日本で初めてのメガネと言われている。
 
大内義隆は以前にザビエルと謁見した際は、男色を非難されたことで怒りを示したが、この度は献上品の数々に喜び、領地内での布教を許可した。
 
そして廃寺となっていた大道寺を、ザビエルのための住居兼教会として与えた。
これは日本初の教会であり、日本で初めてのクリスマスも、ここで行われた。(大道寺の跡地は諸説あるが、JR上山口駅近くのザビエル記念公園が有力)
 
ここでの宣教が、ザビエル日本での輝ける日々である。
山口滞在5か月で、500人の信徒を得た。
仏教の僧侶を含め、毎日大勢の人が大道寺に集まり、彼は1日2回の説教を行った。
 
人々に反応の良かったテーマは、天体の運行、雷や雨、月の満ち欠けなどの自然現象に関するものだった。
「日本人は聡明である」という旨をザビエルは何度も書簡に記している。
当時のヨーロッパの最先端の科学知識を、山口の庶民たちは説明を受けるたびに、すぐに受け入れていった。
 
しかし、彼らがどうしても理解できない事柄があった。
それは、神が天地万物を創造したという概念だった。
 
【「大日」から「デウス」へ】
 
先に記したように、ザビエルは聖書の教えを説く際、もっぱらヤジロウの訳した言葉を使っていた。
 
ヤジロウは、聖書のDeus(神)を「大日」と訳していた。
大日とは大日如来のことで、曼荼羅の中心に描かれる本尊のことである。
 
当時ヤジロウが、「神」と訳さなかったのは理解できる。
神というのは八百万の神というように、日本に古来から存在する、万物どこにでも宿る恐れ多いものだ。
それをザビエルのような異国人が教えるものに当てはめようとする発想は、到底起きなかったであろう。
 
ヤジロウは、外来宗教である仏教の、根本的存在を表す「大日如来」の方が、より近くて相応しいものと考えたのだろう。
だがこれも明らかに、聖書の創造者とは異なっていた。
 
山口での布教時に、ザビエルは指摘を受けた。
あなたの言う大日は、聖書で言う世界のすべてを造った唯一の存在とは、まったく違う概念だ、と。
指摘をした人は、物事の本質をつかむ、賢い人だったのだろう。
 
ザビエルは衝撃を受けた。
聖書の神を、仏教の大日如来としてずっと教えていたのだ。
そして彼はじっくり考えた。
 
結局、日本語にはふさわしい言葉がなかったので、聖書のDeusをそのまま音読した「デウス」とし、他に使っていた仏教用語もすべて取り除くことにした。
そしてその日の夜、ザビエルは取り消しの説教を行った。
 
人々は戸惑ったであろう。
それまで仏教の本場から来た偉大な僧侶だと思って熱心に聞いていた人物が、仏教用語を使うな、デウスと呼べ、と言い始めたのである。
 
わたしは、ここは分かれ道だったと思う。
ザビエルが、他に訳しようがないので「大日」でも良いではないか、後からだんだんと理解していけばよい、人々が教えを受け入れている今の状況で、あえて波風を立たせなくてもよいではないか、と考える選択肢もあった。
しかし彼は、人々から反感を持たれることを承知で、大日をデウスに変えた。
 
後年、キリシタンたちが寺や仏像の破壊を始めるにおよび、人々は警戒し、反発を強めていった。
当然ながら、寺社勢力からは目の敵にされ、迫害の波が始まった。
 
だがこれにより、ザビエルが伝えたのはキリスト教であることが明確となった。
彼が初めて日本に伝えたのだ、と。
 
もしかしたら、これより前にキリスト教やユダヤ教が日本に入ってきていたのに、日本語に適切に訳されなかったり、神道や仏教に同化していって、伝わったことにはならなかった、ということがあったのかもしれない。
 
【志半ばでの死とその後】
 
ザビエルは本国との連絡が途絶えたため、いったんインドに戻ることにした。
日本での布教を拡大するため、第二陣の宣教師たちを派遣するよう、要請する必要もあった。
 
そして日本人の若者4人(ベルナルド、マテオ、ジョアン、アントニオ)を同行させることにし、ゴアに向けて出帆した。
 
ベルナルドはゴアで司祭の学校に入り、その後ヨーロッパに留学し、ローマ教皇とも面会した。
日本人で初めてヨーロッパに渡った人物となり、1557年にリスボンで死去した。
 
マテオはゴアで病死、他の2人の消息は不明である。
 
一方ザビエルは、日本での布教の成功のためには、歴史的に日本に大きな影響を与えてきた中国での布教が先決と考えた。
山口で、「シナ人が知らないのに、どうして真の宗教と言えるのか」という非難が寄せられたことがあり、それがずっと頭をよぎっていた。
それで彼は中国での布教を志した。
 
しかし、広東省の沖合にある上川島で入境許可を待つ間、ザビエルは病を得、たった一人の中国人の従僕に見守られ、息を引き取った。
1552年、46歳だった。
 
死ぬとき彼は無念だっただろう。
中国での布教、次いで日本での布教を成功させるという壮大な夢を描いていたものの、その端緒につく間もなく、死ぬことになった。
 
ザビエルの遺骸は現在、ゴアのボム・ジェズ教会に安置され、10年に1度、棺の開帳が行われている。
右腕だけは、ローマのジェズ教会で保存されている。
 
ザビエルはカトリック、プロテスタントを問わず、広く世界で知れ渡っている。
英国国教会とルーテル教会は、命日の12月3日を記念日としている。
船旅では病気の者を献身的に世話し続けるなど、人徳の面でも胸を打つものがある。
 
1920年(大正9年)、大阪府茨木市の民家に伝わる「開けずの櫃」から、ザビエルの肖像画が発見された。
教科書などでよく見る肖像画だが、禁令化真っただ中の江戸時代に、西洋の絵画技法を学んだ日本人が想像で描いたものとされる。
 
ザビエルが小西隆佐に蒔いた種が、後に河内キリシタンとして実を結び、大阪北部の山奥で、人知れずキリシタンの信仰が守られ続けた。
 
肖像画は現在、神戸市立博物館が所蔵している。
 
 
 
 
 

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