論語 為政8 裏にある真意、その偏りが歪みへ

子夏が、どのように親に事えたらよいか尋ねた。
 孔子は答えた。
 「親を思う心があっても、それが素直に顔に出ているかね。苦労は子が引き受け、ごちそうはまず親に進めるというだけでは、まだ孝養をつくしているとはいえない」

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 「事えたら」と書いてつかえたらと読む。仕えると同じような意味である。

 為政の項目は親孝行の項目がよく続く。
 一つ一つは突っ込みどころがあったりするのだが、孔子の考える親子関係のあり方から、私なりの考えがまとまってくる。

 つまるところ
 親、目上の者に求められるものは礼節である。先祖まで礼節の対象にすることで想像力や共感能力が広がる。そして自分の事、目先の事だけでなく、多彩な状況、技術や時代の変化に伴う人間関係、生活において心の余裕を持つことができ、適度かつ穏やかな対応を保てる。それが、自身を超えての他人の為になる。

 子は親という身近な存在から礼節を学び、世代にわたり伝わっていくサイクルが出来上がる。だからこそ、子が親に対してどう孝養を果たすべきかを考えるのかもしれない。

 簡素にまとめてみたが、読み始めたころの自分にはなんのこっちゃ分からないだろう。
 言葉の裏にはそれに伴う言語化されていない知識や経験がある。それが端折られている。

 すべてを言葉にしても伝わるものではない。経験のない人に伝えるのは至難の業である。同時に自身が傲慢になってしまったり、視野が狭くなってしまう事にもなりかねない。

 論語だけを見ているとそれだけが万能に感じられる。しかし他にも教えや教訓はある。それだけに偏ってしまわないように他の分野の本や体験から知識を付けていかないと、ただのめんどくさい人になりかねない。

 言うのは安い。想像以上にハードルが高いのだと思われる。

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