論語 為政9 自己満足とアドバイスの隙間

 回と話し合っていると、いつまでたってもうなずいてばかりいる。こいつ、うすのろではないかと思うほどだ。
 ところが、ふだんの生活ぶりを観察していると、何気ない言動に、ハッと思わせられることがしばしばある。回という男は、うすのろどころではない。

久米旺生(訳)(1996)『論語』 徳間書店 中国の思想[Ⅸ]

 回というのは孔子の弟子の一人。回の業績は分からないが話を聞く、アドバイスをするというのがどれほど難しいか。
 私としてすごく実感しているので、回という人物のすごさは伺える。

 多くの人にとってアドバイスは余計なものにすぎない。
 アドバイスを求めているとき、それは多くの場合知識を求めているのではなく話を聞いて貰いたいだけだったりする。

 悩みの問題の本質は思考のループが始まることである。気が付かないうちに同じことを何回も頭の中で繰り返しているのである。
 
 仕事の悩みで例えよう。

 仕事で理不尽な目にあった→仕事ってそうなもんだろうと納得させる→生きていくためにはお金が必要→でも今の職場でなくてもいい、改善もしないし。→転職したほうが良いのか→それでも時間はかかるしキャリアも捨てることになる。
→でも思い返せば同じような理不尽な目にあった→どこの職場でもある→仕事ってそんなもん・・・

 というような考えているようで実は同じところを回っているループが起こり、次第に気分も落ち込んでいくのが悩みの問題だ。私はこれを重症化と呼んでいる。

 そういう時に正確にアドバイスするなら、職場での理不尽が本当にそうなのか吟味して、証拠を集めて行く作業から入っていく。生きていくためにお金が必要というなら、今のお金の使い方を改める。
 そういった事実に対しての具体的な動作がアドバイスである。証拠集めのボイスレコーダーの準備や、弁護士、労基への相談、家計簿をつけて、余計な出費を抑える等々。

 しかし、これら具体的なアドバイスが役に立ったことなどまずない。聞いている側がうんざりするだけだ。書いていて私も少々イラっとした。

 先ほど書いた通り解決策が欲しいのではない。相手は話をすることでスッキリしてループが終わるのである。
 
 勿論セクハラやパワハラ等ほっといていい問題ではない。許されることではないという前提のもと、我慢せざるを得ない理不尽もある。それは状況と人格等の関係で。戦う事のが苦手な人や単に疲れている人もいる。

 だからこそ、このループに付き合ってスッキリさせてほしいのか、的確なアドバイスが必要なのかを聞き手が見極めないといけない。なぜなら、話をするときに「黙って聞いて、余計なことを話さずにループに付き合って」と自覚している人は決して多くない。

 そして孔子の話から察するに、的確なアドバイスをされると聞いている側がハッとするのである。

 つまり、聞いている側がその手があったかと感じる必要がある。
 考えてみれば当たり前なのだが、どうしても自身の経験だけに頼った役に立たないアドバイスを長々としたり説教したりしてしまう。話している側は勿論善意で。そして余計に相手は気を病むというずれが生じてしまう。

 実際にそんな役に立たないアドバイスを私は人生で百回は繰り返している。そしてそれに気が付いた今も気を抜くと役に立たない正論を話してしまう。厄介なのは形式上正論が役に立つのである。相手がどんな人間でどんな状況なのか未だに見抜けていない。

 それを平然とやってのける回はすごい。そして表面上評価されにくいのだろう。孔子でさえうすのろの烙印を押しそうになっている。

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