一首感想『滝と宴を同じテーブルに寄せ合ってきみが忘れてゆく夜にいる』

滝と宴を同じテーブルに寄せ合ってきみが忘れてゆく夜にいる

我妻俊樹(2023)カメラは光ることをやめて触った 書肆侃侃房


夜の歌が好きだ。自分もよく夜を歌に読み込んでしまうし、人の歌に出てくる夜を想像するのが好きだ。自分の今の興味のあるテーマなのかもしれない。

滝と宴は全く異なるようで実はその特徴は綺麗に対比があることに気付かされる。
自然のもの/人工的なもの、流動的なもの/皆がその場にとどまることで成立するもの、恒久のもの/一時的なもの、と相反する要素を持っている。
同じテーブルにのせるということはその二項対立の構造から抜け出すという意味なのか、テーブルに載せたことで宴の勝利を表しているのか。宴の勝利であれば寄せ合うという言葉にはならないと思われるので、前者として読み進めていく。しかし無意識で宴を選択してしまっている状況に皮肉を感じる。

きみが忘れてゆく夜にいるということは、主体は過去の夜に留まり続けている。きみとはどのような関係性の人なのだろうか。

ここからは想像になるが、主体は意識的にも無意識的にも選択をして生きる日々に対して思うところがあったのではないか、そうやって積み重なった選択が作り出す過去に何かわだかまりがあるのではないかと思う。そして、以前は同じような悩みを抱えていたはずのきみはいつの間にか成長してこの悩みをすっかり忘れている。きみは朝を迎えているが、主体はまだきみが忘れてしまった夜から進めずにいるのではないか。二項対立の悩みから抜け出せたきみと、抜け出せずに未だもがき苦しみ続ける主体が対比され、ここにもさらに抜ける/抜けないの二項対立が成立してしまっている皮肉がある。

自分の悩みを共有できず取り残されてしまう孤独に共感する歌だと思った。寄せ合ってという言葉が一層自分の孤独を引き立たせているような気がする。学生時代には仲が良かったが、社会に出てお互いに考え方や価値観が変わって同じ悩みを共有できず、少しずつ疎遠になってしまった彼女は元気だろうか。テーブルの外でも良いからこの主体がきみと打ち解けられる日を願う。

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