おじいさんの猫

 晴れ渡った午後。公園の鉄棒で一人の老人が斜め懸垂に励んでいた。
 後方にあるベンチに、杖を立てかけ白い犬を従えた同年配の老人がもう一人。
老いぼれた小型犬で、白い毛がめためたと固まり、目の周りはピンクに薄く染まっている。
 犬連れの老人は斜め懸垂を眺めていた。
 ランニングシャツからむき出しの肩には筋肉が付き、しっとりと濡れている。
 日に焼けた腕の、老人らしい筋肉は懸垂に合わせて上下している。
「負傷でありますか?」
突然、鉄棒の爺様が大声を出したので、小型犬はけたたましく喚いた。
 犬を従えた爺様は不名誉な杖にちらりと視線を馳せ、驚く愛犬をひとしきりなだめると
「ええまぁ、だいぶ前に堀に落ちまして、足を。
こいつが落っこったんで助けようとしたらね。お恥ずかしい話です。」
と膝の上の老犬が子犬だったころの事件をかいつまんで話した。
 鉄棒爺様は「それは、名誉の負傷でありますな。」そう若い軍曹のように、気真面目に答えた。 
 犬の主人は、この人も犬好きなのだなと愛犬の背中をなぜ、ズボンでその手を拭きながらにやにやした。
 と、軍曹のような老人は
「自分の友人も、それで命を落としました。」という。
 犬の主人は仰天した。仰天したのが伝わって、犬はまた甲高く叫ぶ。それを聞いて、
「おい、大丈夫かっ!」
と軍曹が小型犬を振り返った。
 「え、大丈夫です、こいつは大げさなんで」犬の主人は慌てて愛犬を抱き上げた。
やれやれ、あの調子でこいつに抱きつかれでもしちゃ大変だ。
犬は老人の膝の上でベロを出してはあはあし、時折唸り声を出している。「よしよし、怖くないぞ。」犬爺様が猫なで声で囁く。
  鉄棒爺の方は、主人に抱えられた犬を見て安心したのかまた懸垂に意識を集中した。
「ご友人は、立派な方だったんでしょうなぁ。」
犬の主人は、鉄棒爺様のよぼよぼの友人が愛犬のために命を投げ出す姿を想像して、
そんなどじな死に方はしたくないな、と思いながら言った。
「そうです。立派な男でした。
家にはまだ幼さすら残る新妻が、彼の帰りを待って、待っていたのであります。」
「な、ななんと。
そのような方が亡くなられては忘れられんでしょうな。何十年経っても。」
 犬爺様は死人の年齢を脳内で50年程巻き戻して言った。
「いえっ。ほんの、数日前のことでありますっ。」
鉄棒爺様は懸垂の途中で涙を拭い、あわやバランスを崩して鉄棒にぶら下がった。
 こんな年でうら若き女房を貰った!
犬爺様は青々とした空を見上げ、思わず羨望のため息を吐いた。
類は友を呼ぶというが、やはりこの鉄棒じじいのように筋トレを欠かさない男だったのだろうか?
 鉄棒爺を見ると、さすがに懸垂の速度が落ち、
今では止まっているのか上下運動の途中なのか定かではなかった。
犬爺様は思う。私も少し頑張らんといかんかな。
しかし、古女房がどんな顔をするかしら。
「ふふふ、呆れるだろうな。」
興奮のため顔半分がピンクの涙で染まった愛犬を掬い上げて呟いた。
それから鉄棒を睨み付けている背中に「それであなたご家族は?」と聞く「ええ、藪に隠れています。様子を見て出てくるでしょう。
危険だからついて来てはいけないというのに、いつの間にかほふく前進を覚え、砂で擬態することも覚え、
今では私でも見つけられんのです。
見つけ次第、送り返さなければなりません。」
「それは・・・少し心配しすぎではないでしょうかね?あなたも若い奥さんを貰われたので?」
流石にほふく前進やらは大げさに言ったのだろうが、老いぼれて若い女房なんか貰うから、嫉妬で家から出せなくなるんだ。
周り中の男が双眼鏡でも持って狙っていると思うんだろう。
やはり年甲斐のないことはするもんじゃない。第一罰当たりだよ。
 何が罰当たりかわからないがそう思って老人は少し溜飲を下げた。 
 それからムチムチした若かりし日の妻が、砂まみれで匍匐前進をしながら藪に沿って自分の後をついてくる様を想像した。
 鉄棒爺様が続ける。「妻は・・・妻は長崎にいたのですよ。ひどい苦しみようでしたが、何とか双子を産んでくれました。」
 砂まみれの妻が二人の幼子を従え、海を泳いで渡る。
「男冥利につきますなぁ。」 恋女房が二人の子供をあやす姿を想像しながらつぶやいた。
と、突然「自分は・・・自分は国賊でありますっ!」
鉄棒の老人がくずおれ、砂を掴んで自分の頭を地面に叩きつけた。
 それを合図にしたように、どどどっと藪から猫が二匹走り出してきた。
玉になって転げて、お互いに齧り付いたり引っかき合ったりしている。 
 そのうちに一匹が地面を睨み付けている鉄棒爺様の所へきて、顔の涙をざりざりと舐めた。
「いや、失礼しました。」
顔を上げた鉄棒爺様は小型犬ににじり寄り、嫌がる犬の前足を両手で掴んだ。
「私は友を救えませんでした。貴方はいい同胞に恵まれ、本当にお幸せであります。」
そういうと、きっ、と犬の主人の方に顔を向け「日本国、万歳。」とつぶやいた。
 立ち上がる彼の足に二匹の猫が体を絡ませる。
「ついて来てはいかんとあれほど言っただろう。父さんの言うことが聞けんのか。」老いた軍曹は力なくそういうと、注意深くあたりを見回しながら公園を後にした。
二匹の猫のしっぽが、ゆらゆら揺れながら後を付いていく。

 白い犬と、犬の主人はじっと動かなかった。

  しばらくして、エプロンをした女性が公園に駆けてきた。
「猫を連れたご老人を見ませんでしたか?」
「ええ、あちらへ帰って行かれましたよ。ご家族ですか?」
「いえ、私はヘルパーなんですよ。
認知症がおありなんですが、最近双子のお子様が相次いで癌で先立たれて。ええ。少し・・・精神的にも不安定になられているんです。」
 彼女は心配そうに犬を抱いた老人が示した方向を目で追った。
 老人はおそるおそる聞いた。「あの、奥様は?」
「妊娠中に被爆なさったとかで、お子様をお産みになってすぐに亡くなられたそうです。」
―おれは国よりも家族を守りたかった。そういうことだろう。彼が自分を国賊というからには。
 二匹の猫が、軍曹よりも長生きするといいな、と、老人は愛犬を見ながら思った。
それから家で待つ古女房を想い、俺は最後に逝こう。そう思った。
やっぱり年老いた愛犬とよたよた歩きながら。

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