日本も世界も氷雨の時代に

日本も世界も氷雨の時代に
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」116/通算548 2022/12/22/木】今朝は深夜からの氷雨。昨日はスズメの水飲み場が凍らないように保温性の高い蓋を作って楽しんだが、今朝見ると合格点。空が明るくなったので午後からチャリ散歩に出掛けよう。

多摩丘陵の一帯には縄文時代の遺跡が多い。散歩コースの東高根森林公園も縄文遺跡で、一番高いところの150m四方の広場で、縄文時代のような服装をしてキャンプできたら随分愉快だろうと思う。夏休みなどの子供向け体験学習「みんなで一日縄文人」とかで開放したらとても楽しそうだ。

小生は3年ほど前に三内丸山遺跡(青森県)を見学し、考古学者の岡村道雄著「縄文の生活誌」などを読んでから狩猟採集の縄文人のファンになった。しかし、古代史では縄文人は消えて弥生人に取って代わられたようになっており、縄文DNAの小生は不満だ。「日本史事典.com」にはこうある。

<縄文時代は今からおよそ1万5000年から2300年前の約1万年の間を指します。しかし縄文時代の時期についての説は多くあり、地域差もあって定かではありません。

旧石器時代から縄文時代へ時代が替わると、環境の変化(氷河期が終わり温暖化へ)のため、人々の生活は大きく変わりました。新しい道具や狩猟・採集の仕方など、縄文時代の人々は地球の目まぐるしい環境の変化と一緒に、自分たちの生活も変化させたのです。

弥生時代は、およそ紀元前300年頃から紀元後300年頃の、約600年の間を指します。しかし、始まりは紀元前800〜900年頃という説も出てきています。

主に採集をして生活をしていた縄文時代から弥生時代へ時代が変わると、水稲耕作が生活の中心になったことで、人々の生活は大きく変わりました。新たな文化が定着した弥生時代では、集落のなかでリーダーが生まれ、人々に身分の差が生まれました>

「身分の差」はダメ!? まるで共産主義の政治宣伝みたいだが、WIKIでは「縄文VS弥生」はせめぎ合っているよう。学術界でも派閥抗争はあるのだろう。

<紀元前10世紀または紀元前5世紀、紀元前4世紀頃に、大陸から北部九州へと伝来した水稲耕作技術を中心とした生活体系は、やがて九州・四国・本州に広がった。

縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に水稲農耕技術を伴う社会が成立していたとされ、従来、縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある>

ややこしいなあ。「縄文時代後期には水稲農耕も始まり、定住化も進んでいった」とすれば良いのであって、何も「弥生時代」という区分けをする必要はないと思うのだが、まあ、学術界にもいろいろな都合があるのだろう・・・

古人曰く「歴史は勝者が創る」「歴史は書き換えられる」。支那王朝の公式な正史は「二十四史(にじゅうしし)」と呼ばれているが、その「第一史」は司馬遷の『史記』で、それだけで130巻に及ぶという。20年前に小生は「イザッ、読破せん!」とチャレンジしたが、ややこしくて撃破されてしまった。支那人でも「二十四史すべて読みました」という人は非常に少ないのではないか。

小生は「古事記」にもチャレンジしたが挫折し、久松文雄氏の「まんがで読む古事記」で学んだ。それでも難しくて全7巻読破するのに1か月ほどかかり、それでも「何となく分かった」レベルで、5回くらい読まないと脳みそに浸み込まないようだ。再読、三読・・・考えただけで頭がくらくらする。閑話休題。

「二十四史」は基本的に新しい王朝が前王朝について書くそうで、「○○王朝は最初は立派だったがだんだん悪政になって民の反発を買い、天の意を受けた我が☆☆王朝の初代皇帝によって消滅した」という易姓革命流がパターンのようだ。

WIKIによると――<司馬遷『史記』によって紀伝体(歴史記述の一形式。各人物ごとの事績を中心に歴史記述を行う)の「史書」という形式が生まれ、続編として班固『漢書』が書かれることによって断代史(王朝ごとなどに時代を区切って扱う歴史書)という概念が生まれた・・・

中華人民共和国では1959年から1965年までかけて前四史(史記・漢書・後漢書・三国志)の校点本(新史料を加えたもの)が中華書局から出版された。その後、文化大革命のために二十四史の出版事業はいったん停止するが、1977年までかけて二十四史と『清史稿』校点本の出版が完了した。2007年から修訂事業が開始され2013年の完成を予定していたが・・・何度か先送りされている>

中共としては以下のようなストーリーで『清史稿』を終えたいのだろう。

「満州民族である女真族の支配する大清帝国(清朝)の末期は列強諸国の軍事的圧力・侵略を受けて不平等条約を結び、領土を蚕食され、民は貧困と屈辱に苦しんだ。

義憤に駆られた孫文(孫中山)らは、この危機を突破するために異民族支配から脱却し支那人を結集して富国強兵を図るしかないと同志を募り、辛亥革命(1911年10月10日~)で清朝を打倒、ここに「中華民国」を建国した。

しかし、孫文亡き後、権力を強奪した蒋介石一派は人民の期待を裏切り、残虐非道な日本帝国主義との戦いよりも、人民を代表する中国共産党を天敵として内戦を起こし、人民を再び苦境に追い込んだ。

毛沢東率いる中国共産党はソ連などの友好国の支援を受けて、清朝的王朝復活を狙う蒋介石一派を本土から追放し、1949年に「中華人民共和国」を建国、ここに清朝は名実ともに亡びたのであった」

「中共ご都合主義史観」ならそれでいいが、『清史稿』を創るのは社会科学院のインテリである。独裁者の習近平が圧力をかけても「ご説ごもっとも」と史実を捏造はできないから、あーでもない、こーでもない、と苦しんでいるのではないか。

習近平は絶対的な権力を確保するため共産党の無謬神話を必要としており、結局は『清史稿』は国内版と国際版の二つを創ることになるかも知れない。

清朝(1644~1912年)が権力を孫文の中華民国に禅譲した「辛亥革命」翌年の1913年、マルクス&エンゲルス共著の「共産党宣言」(初版1872年)が支那に初めて日本経由でもたらされたが、これを1年前倒しして1912年にすれば「孫文は共産主義であり、中華民国建国の原動力になった」というレトリックはできる。さすれば『清史稿』で「共産主義思想が清朝打倒をもたらした」と書き上げることができるわけだ。

1912年当時、毛沢東は19歳の高等中学校生で日本の明治維新に感銘を受けていたというから、「辛亥革命に同調し、孫文を師と仰ぎ、革命の前進を決意した」というストーリーも可能である。

習近平は国内版『清史稿』ではそのように歴史を改竄・脚色して毛沢東と中国共産党の存在感をアピールしたいだろう。露骨な毛沢東・中共のプロパガンダ、捏造、似非神話だが、言論統制下の中国では「嘘も方便、嘘も百回言えば真実となる」からノー・プロブレム。

これでは人民は思考停止の暗愚か面従腹背の姑息な守銭奴が増えるばかりではないか? 忠実な共産党員と言っても、ソ連末期のように餌が枯渇すると「サナダムシ」のように宿主(寄主)から離れるものだ。現在のプーチン・ロシアも習近平・中国でも、それなりに蓄財した良き人材から守銭奴までが祖国から逃げ出しているとか。

「国民は民度以上の国家を持てない」と言う。中露とも「明日は晴れるだろう」という見通しが全くない。日本は・・・「晴たり曇ったり、ところによって雨、お出かけには傘をお持ちください」。日本は秋の長雨になりそうだ。
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