先輩、識者、歴史から学ぶ

先輩、識者、歴史から学ぶ
“シーチン”修一 2.0

【雀庵の「大戦序章」109/通算541 2022/11/25/金】11/23は終日雨で、屋上庭園防水ペンキ塗りの予定が狂ってしまった。雨が止んでも乾燥するまで塗装はできないから、「11月中にとにかく防水作業を終える」という計画が遅れるのでブルーな気分になる。しかし、ブルーになったところで晴れるわけではないので、PCに溜まった過去記事をCDに移してPCの負担を軽くする作業をした。

1年分(およそ120本)の自作記事をPCのメモリーから除去しただけなのだが、随分PC操作が速くなった。それ以前は「安さに引かれてDELLを選んだが、安物買いの銭失いとはこのことか、どうせ Made in China だろう」と自虐的になっていたが、保守、メンテナンスをそれなりにちゃんとやっていればバタバタすることもなかったろう。自業自得だ。

しかし、そう分かっていても人間は過ちを繰り返す。危機になり、切羽詰まらないと腰を上げない。分かっちゃいるけど、問題を先送りする。備えあれば患いなし、それは分かっているのだが、後回しにする、そしてダメージが表面化すると、「ああ、ちゃんとやっておけば良かったのに・・・」と悔やむ。

ヒーヒー言いながらもどうにか復旧とか前進できるのならいいが、ほとんどのケースは失敗するのではないか。人生も国家も10戦で5勝5敗なら御の字、4勝6敗でもOK、「最後に勝てばいい、そのために敗戦から学べ」と戦国の武将は言っていた。終わり良ければ総て良し・・・まあ、それほど単純ではないが、「努力を怠らない、失敗や敗戦を繰り返さない」ということだろう。先人や先輩、識者、歴史などから学ぶことも当然大事だ。

現代ビジネス2022/11/22「中国・ロシアに侵される日本領土を撮り続ける写真家が日本人に伝えたい、たった一つのこと 近藤大介/山本皓一」も大いに勉強になった。以下転載。

<《国境を越えてウクライナに侵攻したロシア、日本の国境を脅かす核保有の3強権国家(中国・ロシア・北朝鮮)――いま日本の国境が問われている。

そんな中、日本の国境を撮り続ける国際フォトジャーナリスト・山本皓一氏(79歳)が、自身の集大成として、新著『中国・ロシアに侵される日本領土』(小学館)を今月、上梓した。巻頭に73枚もの貴重な写真を載せた同書は、早くも一般読者はもとより、国会議員や霞が関の官僚たちの間でも、話題を呼んでいる。

そこで、東アジア問題を専門とする現代ビジネスコラムニストの近藤大介が、山本氏と緊急対談を行った。2時間にわたる対話から浮き彫りになった日本の国境の「穴」とは――》

【平和ボケした日本の中で】近藤:山本さん、というより長年お世話になっている親しみを込めて、ヤマコーさんと呼ばせていただきます。久しぶりに事務所にお邪魔しましたが、ここはまるで「日本のウクライナ」ですね。

山本:それ、どういう意味!?

近藤:日本は平和ボケしてますけど、ヤマコー事務所だけは「臨戦態勢」だということです。置かれた蔵書、飾られている写真、それにこのただならぬ雰囲気。ウクライナの塹壕に来たような、身の引き締まる気がします。

山本:何せ半世紀以上、日本と世界の「現場」を渡り歩いてきたからね。もう来年は傘寿だよ。まさか自分より先に逝くことはないと思っていた安倍晋三さんも、7月に先に逝っちゃった。

実はこの新著には、晋三さんとの対談を巻末に入れる予定だったんだ。7月の参院選後に対談する約束だったんだけど、あんなことになってしまって……

近藤:そうだったんですね。ヤマコーさんというと、国際フォトジャーナリストというイメージが強いけれど、日本の政治家も多数撮っていますよね。あの田中角栄元首相が唯一、密着取材を許したカメラマンでした。

山本:そう。角さんの遺影は、私が撮った写真が偶然使われた。政敵の福田派筆頭の安倍晋太郎さんの遺影も、実は私が撮った写真。晋太郎さんは、「ポスト中曽根」を争った1987年の「安竹宮」(安倍晋太郎・竹下登・宮澤喜一)の時に初めて密着取材して、親しくさせてもらった。

息子の晋三さんも、その頃、昭恵さんと華燭の典を挙げて、その結婚式の写真を撮ったのが初めての縁だった。以後、1993年に初当選してからも撮り続けた。

近藤:長年、多くの政治家を撮ってきて、何か感じることはありますか?

山本:ファインダー越しに政治家の顔を覗いていて思うのは、大仕事をやってのける「本物の政治家」というのは皆、悪党の顔つきをしているということ。例えば、2006年に第一次安倍政権が誕生したけれど、当時の安倍首相は、貴公子然として甘すぎるマスクだった(笑)。もう少し打たれ強くなってからの方が……と思ったら案の定、一年で退陣してしまった。

ところが、2012年末に復活して第二次政権を発足させると、まるっきりの悪党面に変わっていた。政治家が権力を持つと、野党やマスコミにゴリゴリやられ、そんな圧力の中で、決断し、実行するという思いっきりの覚悟と責任感ができると、その表情は劇的に変わる。彼の顔をファインダー越しに眺め、これは長期政権になるなという予感がしたね。

近藤:ファインダー越しにみた顔つきで政治家を判断するというのは、カメラマンならではの感性ですね。安倍晋三元首相を最後に撮ったのはいつですか?

山本:昨年6月。国会議員会館地下の会議室を、写真スタジオのようにして撮った。その時、初当選時に撮った写真パネルを作り、手に持ってもらったりしてね。先月25日に野田佳彦元首相が衆議院で行った追悼演説の際、昭恵夫人が持っていた遺影は、その時に撮った写真の一枚だった。

【戦後初めて北方領土に入った日本人ジャーナリスト】近藤:そうだったんですね。ヤマコーさんはまさに、「日本現代史の生き証人」だ。

先週、ある国会議員に呼ばれて事務所へ行ったら、ご新著『中国・ロシアに侵される日本領土』が置いてありました。「読んだか?」って聞かれたから、読んで感銘を覚えた箇所を指摘したら、「ほう」と言って、折り目を入れていました(笑)。

山本:私にとっての国境へのこだわりは、「尖閣を守れ」「北方領土を返せ」というスローガンではないんだよね。日本人に、日本の国境で起きている現実に目を向けてほしい。先人たちが血と汗と涙を流して国境の島を開拓してきた歴史を抹殺してはならないという想い――その一念なんです。

近藤:なるほど。日本は四方を海で囲まれた島国だから、「国境」と言っても、なかなかピンと来ませんからね。

北方領土、尖閣諸島、竹島、沖ノ鳥島・南鳥島……ヤマコーさんの国境へのこだわりは、そもそもどうやって生まれたのですか?

山本:きっかけは、北方領土だよ。1989年に、戦後初となる稚内港から直接船でサハリン(樺太)への訪問団にカメラマンとして真岡港(ホルムスク)へ入った。

翌1990年1月、北方領土問題解決の糸口を探るため、安倍晋太郎外相がモスクワへ飛び、ミハエル・ゴルバチョフ書記長と会談。ソ連側が初めて北方領土問題の存在を認め、「英知ある解決をしよう」と述べた。その会談にオレは立ち会って、「ゴルバチョフvs.安倍晋太郎」の真剣交渉の一部始終を撮った。

近藤:その頃、安倍晋太郎外相は、すい臓がんが、かなり進行していたのでは?

山本:そう、病身を押して外遊する姿には、鬼気迫るものがあった。その時、秘書として同行していたのが晋三さんで、「日本外交の歴史的成果を日本国民に報告する場で、父の土気色した顔は見せられない」と相談を受けた。それで現地のTVスタッフから借用したドーランを晋太郎外相の顔に塗り、口の中に含み綿を入れて頬がふっくらするようにしたの。

晋三さんはそんな父親から「領土とは何か」を学んだんだね。まさに親子二代、命を削って北方領土問題の解決に取り組んだ。

近藤:安倍晋太郎氏は、翌年4月、ゴルバチョフ大統領が最初で最後の訪日を果たした時、衆議院議長公邸で面会しましたね。私は雑誌協会代表記者として現場で取材しましたが、その時も晋太郎氏は背広の下に綿を入れて臨み、ゴルバチョフ大統領とがっちり握手した。亡くなったのはその翌月でした。

山本:そうだったね。1992年にロシア側が、北方領土への「ビザなし渡航」を認めたのも、晋太郎外相の功績だった。

私はその2年前の1990年1月、モスクワに同行取材したことがきっかけとなって、同年5月、それまで渡航困難と言われた北方領土の択捉島に、日本人ジャーナリストとして、戦後初めて入った。

【択捉島で日本人の墓石を発見】近藤:そこのくだりは『中国・ロシアに侵される日本領土』に詳述してありますが、読み応えがありました。

山本:本当に、入るまでが大変だった。当時のソ連側には“敵国”のカメラマンを北方領土に入れるメリットなんてないからね。

択捉島に上陸してみると、目抜き通りのソビエツカ通りは寂れていて、ソ連側は「日本時代の墓はもう残っていない」と言う。だがオレは、日本人が江戸時代から1945年まで住み続けたのに、そんなはずはないと確信して、あちこち探しまわった。

近藤:そうした苦労が、「世紀の発見」につながったのですね。

山本:そう。最初は日本時代の建造物や砲台跡などを見て回っていたけれども、高台にあるロシア人墓地にも足を伸ばしてみた。すると墓地のそばに、横倒しになったり、土に埋もれたり、あるいはロシア人の墓の土台となった日本人の墓石を確認した。

泥にまみれながら2日間調べて、計28基の墓石を確認した。特に半壊した墓石に書かれた「忍山良耐居士」と記された墓を発見した時、胸にジーンとこみあげてくるものがあって、「オレがやるべきは、国境で日本人が生きてきた証を記録することだ」と決意したんだ。

近藤:ヤマコーさんの発見は、当時、大きなニュースになりましたね。それで日本政府が重い腰を上げ、3ヵ月後に初めて、日本からの墓参団訪問が実現した。

山本:そうだね。当時は日本の国境を撮っていると言っても、相手にされなかった。政治家は票にならないし、官僚は出世につながらないし、マスコミは相手国提供の写真を平気で使っているし、国民は関心がなかった。関心があるのは、一部の右翼団体だけで、「山本は右翼カメラマン」というレッテルを貼られた(笑)。

近藤:そうだったんですね。私がヤマコーさんを尊敬している点が3点あるんです。第一に、テレビ局でも大新聞でもなく、『週刊ポスト』という雑誌出身のカメラマンでありながら、縦横無尽の活躍を続けてきたこと。

二つ目が、田中派だろうが福田派だろうが、果てまた国境の向こうの敵国の人だろうが、思想信条や国籍など問わず、人間として撮ること。そして第三が、79歳になる現在まで、第一線で撮り続けていることです。

山本:それはありがとう。そんなわけで、早くから国境問題に目を向けてきた数少ない政治家の安倍晋太郎外相が尽力してくれたおかげで、私は北方領土へ行けた。そしてそれによって、日本として一つの道が開かれた。

【両側から見てこそ国境の意味がわかる】山本:翌1991年にも、日本の真珠湾攻撃50周年ということで、連合艦隊が真珠湾攻撃前、密かに集合した択捉島の単冠湾を撮影しに行った。2004年には、3度目の択捉島と、初となる国後島にも上陸した。

当時、話題になっていた「ムネオハウス」(鈴木宗男議員が主導して建てた「日本人とロシア人の友好の家」)も「通常営業」していたよ(笑)

近藤:宗男議員は、当時逮捕されていたのでは? いまでこそウクライナ戦争で「ロシア擁護論」の急先鋒ですが。

山本:そう、当時は国会でもヤリ玉に挙げられていた。結局、16年かけて、北方領土4島全部を回った。やはりね、国境というのは、両側から見てこそ、国境の意味が初めて分かるんだよ。

近藤:その気持ち、理解できます。私の研究対象である中国は、14ヵ国と陸の国境を接していて、私はそのうち北朝鮮、ロシア、モンゴル、カザフスタン、ミャンマー、ベトナムと6ヵ国の国境地帯を回りました。

その際、いつも思うのは、このまま国境を越えて、逆に回って確かめてみたいということでした。まったく違った人たちが、違った考えを持って、同じ風景を眺めているんだろうなと。

山本: そのことはね、世界で最も厳しい国境と言われる南北朝鮮の板門店の国境を、両側から見た時に実感したよ。1980年、北朝鮮に入って、北側から板門店に行って、国境ラインまで向かった。すると韓国側からアメリカ兵が、「コミュニストがいる!」と言って、私の写真を撮り出した。

そのアメリカ兵は私のよく知っている“陽気なヤンキー”とはまるで違っていた。自分の立つ位置によって相手の見方はまるで違ってくる。やはり「ものを見るには」双方からの視点が重要との思いに至り、以後、自身の取材に対する基本になった。

近藤:北朝鮮人と間違えられたわけですね。

山本:そう。若い頃はどこへ行っても、赤軍派と間違われたけれど、初めて北朝鮮人と思われた(笑)

近藤:私は韓国側から板門店の国境ラインに行きましたけど、あの緊張感というのは独特のものがありますね。すぐ目の前に線が引いてあって、容易に歩いて越えられるけれども、越えたとたんに撃ち殺される。

山本:私の場合、先に北朝鮮に行ってしまったものだから、韓国のビザが3年間も下りなかった(笑)。その後、韓国側からも行ったけどね。

【実効支配を甘受する日本側の問題】近藤:その韓国との竹島(韓国名「独島」)問題です。『中国・ロシアに侵される日本領土』を読んで驚いたんですが、ヤマコーさんが苦労して竹島に上陸したら、韓国側よりも日本外務省にお叱りを受けたとか。

山本:そうなんだよね、相手が実効支配している係争地へ渡ると、相手の国の主権を認めたことになるという主張だ。

だけどね、日本が自国の国境を隠すようなことがあってはならないと、強く思う。北方領土の貝殻島コンブ漁にしても、現実には、毎年ロシア側に金を払って、北方領土海域で漁業をする交渉を農水省がやっていたりするわけだ。

何と言っても、前述のように、日本のメディアが竹島や北方領土の写真を使うのに、なぜ韓国やロシアのクレジットを入れて使わなければならないのかということが、納得できない。それで全部、自分で撮ってやろうと思ったわけ。

近藤:『中国・ロシアに侵される日本領土』によれば、初めて竹島に上陸されたのは、2006年5月ですね。日本は小泉純一郎政権の末期で、韓国は廬武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代です。

山本:実はその一年前に、竹島上陸を果たそうと試みて、途中の鬱陵(ウルルン)島までは行ったんだけど、そこから竹島へ行く観光船に乗ったら、日本人とバレてしまって、降ろされた(笑)

近藤:それが一年後は、大丈夫だった?

山本:そう。正確に言うと、やはり船上でバレてしまった。でも今度は、「日本国旗は持っていないですね」と注意された。持ってないことが分かると、すんなり上陸を認めてくれた(笑)

近藤:竹島には、択捉島のような日本時代を髣髴させるような痕跡はなかったですか?

山本:まったくない。韓国側は、見事なまでに消し去っていた。

それどころか、2011年8月に2度目の上陸を果たした時は、衝撃的だった。改造して巨大化したヘリポートが威容を誇り、その下部に建った新たな建造物には「警察庁」と大書してあった。海水の淡水化を行う巨大なソーラーパネルも設置していた。そして私が上陸した日(8月5日)には、40人を収容できる4階建ての「島民宿舎」の落成式を行っていた。

近藤:そうやって一歩一歩、実効支配を強めているわけですね。甘受している日本側も問題ですが。

私は昨年出した『ファクトで読む米中新冷戦とアフターコロナ』(講談社現代新書)で、「韓国の竹島支配を手本として、日本の尖閣諸島支配をレベルアップさせよ」と提言したんです。

山本:同感だね。『中国・ロシアに侵される日本領土』にも書いたけれども、竹島は韓国軍の施設が林立する要塞と化しつつある。日本人としてそれを肯定するつもりはないが、「国益を思う強さ」と実効支配のやり方は学ぶものがある。ぜひ日本の尖閣諸島の実効支配に生かしてほしい。

【2003年、尖閣諸島に初上陸】近藤:尖閣諸島の話に移りますが、今年1月の尖閣諸島近海の海洋調査は、話題になりましたね。

山本:そう。東海大学の山田吉彦教授が主導して、同校の海洋調査船「望星丸」に、調査主体である石垣市の中山義隆市長以下23名の調査団が乗り込み、尖閣諸島海域を目指した。私はメディアとして唯一、同行取材を許された。

近藤:日本政府(野田佳彦民主党政権)が尖閣諸島を国有化したのが、2012年9月。言ってみれば、それから初めての日本の実効支配強化に向けた取り組みでしたね。帰還した後、私は山田教授に話を聞きましたが、その点を強調していました。ここまで「極秘プロジェクト」を準備するのに5年かかったと。

山本:その通り。私が尖閣に上陸したのは2003年。それから、約20年で計9回にわたって尖閣諸島周辺海域を訪れてきた。

尖閣に残る唯一の構造物(石碑を除く)が、1978年に政治団体「日本青年社」が建てた高さ5.6mの灯台だ。長く日本青年社が灯台の管理・補修をしてきたが、2005年以降は海上保安庁の管轄に移った。日本青年社に同行してオレが上陸したのは、2003年の補修とバッテリー交換の時だった。

近藤:上陸した時のシーンが『中国・ロシアに侵される日本領土』に詳述してありますが、胸を打ちました。

山本:魚釣島の古賀村には、戦前には200人以上が暮らし、鰹節工場を操業していた。「カツオが手掴みで獲れる島」とも言われていた。

私が上陸した時も、当時をしのぶ茶碗の欠けらなどを見つけたよ。水も出るし、「臭蛇」(しゅうだ)という焼いて喰うと旨いヘビがいる。伊勢えびも獲れるし、イモ畑も作れる。ヤギもいて、いまでは600~800頭に増えている。

近藤:聞いていると、のどかそうですが、尖閣上陸というのは、いつも騒動になりますね。

山本:そうなんだ。2003年の時も、当時の新聞は「右翼の過激で迷惑な行動」という論調だった。しかし右翼の主張は横に置いても、彼らが四半世紀もの間、国からの援助も受けずに灯台を維持し続け、その灯台のおかげで、船舶が海難事故を回避できたりしたわけだ。

それに実際、島の上に立ってみなければ分からないことがある。何より、日本の先人たちが、どのような決意で荒波を越えて尖閣に出向いたのか。その気持ちは、6時間以上船に揺られることで初めて理解できる。

【国有化から丸10年が経つのに】近藤:お説ごもっともです。私は尖閣諸島に上陸したことはないけれども、国有化する前の所有者を直撃して、『週刊現代』で記事にしました。1996年のことで、当時は所有者が正直に心情を吐露してくれました。

山本:あの貴重な記事はあなたがやったの? あれ以降、所有者は沈黙を貫くようになった。

近藤:そうです。それから尖閣諸島は、日中間の風雨に揉まれました。2010年に中国船が海上保安庁の船に体当たりし、中国側が猛反発。2012年には日本政府が国有化したことで、中国側がさらに激しく反発。そうしてその最新形が、ヤマコーさんらが向かわれた、今年1月の調査船というわけですね。

山本:そう。途中で、中国海警局の船2隻に邪魔されたけれども、海上保安庁の8隻の巡視船に守られて、中国船には見えない形で、海水サンプルの採取など、必要な調査ができた。

近藤:一度は中国船と一触即発の場面もあったとか。

山本:あれは、戦時中にこの地で遭難した犠牲者たちを弔う献花を洋上で行っていたときのこと。中国船が突如、われわれが乗る「望星丸」の方向に舳先を向けて、迫ってきた。

近藤:それで、どうなったんですか?

山本:すぐさま海保の巡視船がブロックして、中国船をハの字型に挟み込んだ。すると中国船は直進しかできず、ついには観念したように、速度を落として去って行った。

近藤:大変な目に遭われたんですね。船が帰港した直後、何だか虫の知らせがして、ヤマコーさんに電話したら、「いま石垣島だ」と言われてビックリしました(笑)。

山本:あの航行は、秘密厳守だったからね。いまでも言えないことがある。

近藤:でも東京へ戻ってから、「現代ビジネス」で領土関連の記事を載せていただき、ありがとうございます。

山本:こちらこそ。今回も行って痛感したけれども、日本政府が尖閣を国有化して丸10年が経つのに、「打ち捨てられた島」となっているのが残念でならないよ。

近藤:日本政府はこの10年、何もしてこなかったわけですからね。2014年11月に北京で、安倍首相と習近平主席が初会談を行ってからは、中国側は「日本が領土問題の争点になっていることを認めた」と主張。さらに最近では、尖閣海域への領海侵入が日常茶飯事化しています。

【国境は日本の生存そのもの】山本:尖閣諸島海域へ行くたびに思うことだが、中国軍は太平洋海域に乗り出していくために、何としても尖閣諸島を奪いたい。アメリカ、日本、台湾、韓国が協力してあの海域を封鎖したら、中国の空母は太平洋に出られない。

近藤:私もそう思います。私は中国で、中国側から眺めた「逆さ地図」を見たことがありますが、沖縄、尖閣、台湾の3ヵ所が邪魔しています。

山本:いまも南西諸島で日米が合同訓練をやっているけれども、尖閣諸島を使って日米が軍事訓練をやればいいんだ。そうして自衛隊員の宿舎を作り、段階的に実効支配を強めていく。とにかく日本の実効支配をアピールしないとダメだ。

近藤:島内の自然保護のためにヤギを島外に連れ出すとかね。中国は尖閣諸島を「台湾の一部」と主張していますが、2360万人が住む台湾本島を奪うより、無人の尖閣諸島を奪う方が楽に決まっています。

山本:とにかく、日本の国境を30年以上にわたって撮り続けていて痛感することは、国境は日本の生存そのものだということ。重ねて言うけれども、政府は国境を「隠す」のでなく、積極的にアピールすべきだ。特に実効支配している尖閣諸島は、支配を強化していかないといけない。

近藤:同感です。最後に、卒寿を迎える来年の取材のご予定は?

山本:最近、撮り始めているメコン川を、もう一度撮りに行きたい。あの場所が、これからのアジアを左右する要衝になる。近藤さん、ぜひ一緒に行こう。

近藤:はい。会社に休みをもらいます。

山本:講談社は休みくらいくれる寛大な(?)会社でしょう。ライバル会社の小学館から出した拙著『中国・ロシアに侵される日本領土』について、こうやって対談してくれるし(笑)

近藤:そうですね。バランスを保つために、下に講談社から出した私の新著(「ふしぎな中国」 (講談社現代新書)の書影も載せておきます(笑)。これからも引き続き、第一線で活躍して下さい。今日はありがとうございました>(以上)

とてもタメになる対談だったが、自分が知らないことを知るのは知的刺激ではあるが、「感動する」か「自分の無知を思い知らされる」か、この2択なら小生は後者だった。70歳を過ぎてもまだまだ勉強すべきことが多過ぎて「道遥かなり」・・・そう言えば渡部亮次郎氏がメルマガ「頂門の一針」を創刊した当時、氏は「高齢になってからパソコンを覚えるのはキツイ」とこぼしていた。難関にあって「ナニクソ!」と頑張れるかどうか・・・人生の岐路だな。小生も11/25の今日、2か月に及ぶ屋上防水工事をほぼ完了したが、体力、気力がまだ残っているうちは気を緩めずに前進していきたい。敵は中露朝とその手先、撃ちてし止まん!

末尾ながら山本皓一、近藤大介お二方のプロフィールを紹介しておく。

★山本皓一:1943年、香川県高松市生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。小学館の写真記者勤務を経て、フリーランスの報道写真家に。主な著書に『田中角栄全記録』(集英社)、『写真追跡・知られざる板門店』(講談社)、『地球見聞録』(飛鳥新社)など。『来た、見た、撮った!北朝鮮』(集英社インターナショナル)で第35回講談社出版文化賞・写真賞受賞。1990年にジャーナリストとして択捉島に初上陸を果たして以来、「日本の国境」を取材テーマに据え、北方領土、尖閣諸島、竹島、沖ノ鳥島、南鳥島などを現地取材。『日本人が行けない「日本領土」』(小学館)、『国境の島が危ない!』(飛鳥新社)などを発表。日本写真家協会会員、日本ペンクラブ会員。

★近藤大介:『現代ビジネス』編集次長。1965年生まれ、埼玉県出身。東京大学卒業、国際情報学修士。講談社『現代ビジネス』『週刊現代』特別編集委員、編集次長。明治大学国際日本学部講師(東アジア国際関係論)。2009年から2012年まで、講談社(北京)文化有限公司副社長。新著に『ファクトで読む米中新冷戦とアフター・コロナ』(講談社現代新書)、『アジア燃ゆ』(MdN新書)、『中国人は日本の何に魅かれているのか』(秀和システム)、『ファーウェイと米中5G戦争』(講談社+α新書)など。

小生は早速、図書館に『中国・ロシアに侵される日本領土』の貸出を申し込んだが、3人待ちだった。久し振りに大型書店の文教堂を覗いて、座右の書として為になりそうなら購入しようと思っている。
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