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石内の史跡【石内地区(広島市佐伯区)の紹介】

はじめに


 本記事では、自身の地元である、広島市佐伯区の石内地区について紹介します。

 石内地区は、広島市街から西方に、直線距離でおよそ7Kmに位置しています。郊外住宅地である「西風新都」にも含まれる地域です。
 古代山陽道の沿線として交通の要衝であった石内地区には、史跡や寺社等の文化財が点在しています。また、豊かな自然が残る「まほろば」でもあります。その一方で、運転免許センターや「ジ・アウトレット広島」など、県民にとって馴染み深い施設も、当地区に所在しています。
 今回は、石内地区の代表的な史跡を紹介します。なお、自身がまとめた「石内の史跡」という資料も公開しております。

大茶臼山


展望岩(立石城跡)

 大茶臼山は、西区己斐との境界付近にある標高413mの山です。山頂付近の「展望岩」からは広島市街地や広島湾が見渡せます。なお、立石城(釈迦ヶ岳城)という、大内氏の居城がありました。

金剛院


山門

 金剛院は、「広島新四国八十八ヶ所」の第九番霊場でもあります。もともとは、宮島の「荒胡子神社」の場所に所在していました。

浄土寺


鐘楼

 浄土寺は、阿弥陀如来を本尊とする石内地区の菩提寺です。鐘楼(山門)は古く文化的価値があると言われています。

難波一甫流の碑


難波一甫流の碑

 難波一甫流とは、藩政時代に、武器を持たない農民や町人が護身用として学んだ柔術の一派です。

映画の記念碑


映画の記念碑(石内小学校)

 当校出身の映画監督・新藤兼人の「石内尋常高等小学校 花は散れども」の撮影が石内で行われたことの記念碑です。

公民館の弥生式住居


石内公民館の弥生式住居

 地元の有志によって、下沖遺跡を復元したものです。

浄安寺


薬師堂

 浄安寺には、県重要文化財の「木造薬師如来坐像」を安置する御堂と、市保存樹のイチョウの木があります。

文化財収蔵庫


文化財収蔵庫

 昔の農具や民具などが収蔵されています。五日市町と合併する以前は、この地に石内村役場がありました。

臼山八幡神社


臼山八幡神社

 臼山八幡神社は石内地区の氏神です。毛利元就源範頼の信仰を受けました。市重文である金銅円板懸仏が2体祀られています。

永井建子生誕の地


永井建子生誕記念碑(臼山八幡神社境内)

日本近代洋学の祖ともいわれる永井建子は、陸軍音楽隊最高位の一等楽長に任ぜられました。ロンドンで開催された日英同盟記念博覧会では、指揮者として世界一流の各国吹奏楽隊と連日交互演奏し、その技術と礼儀正しさが賞賛されました。また、帝国劇場洋楽部長などを歴任しました。主な作品に「元寇」や「雪の進軍」などの軍歌や、2代目広島市歌、崇徳高等学校校歌などがあります。

親水護岸記念碑


親水護岸記念碑

 1997年の「ふるさとの川モデル事業」で行われた石内川親水護岸整備の記念碑です。

水晶ヶ城跡


本丸跡

 城跡では水晶を採取できます。
 1184年頃の源平合戦で、源範頼軍が平氏と戦いながら陸路九州に向かった際、家臣の佐々木左衛門国正が居城しました。水晶ヶ城の源氏は、串山・今市両城の平氏と戦ったと伝えられています。室町時代には武田氏と厳島神社神主家、大内氏の間で石内の土地をめぐって戦が行われ覇権が度々移りましたが、1541(天文3)年には大内家臣の麻生右衛門鎮里が入城しました。しかし。1554(天文23)年に毛利元就と、大内氏の実権を握る陶晴賢が敵対すると、毛利軍は水晶ヶ城を攻撃し、麻生鎮里は降伏しました。毛利氏の支配が確定的になると、海に面した桜尾城が重要視されるようになり、また、この城の規模が巨大過ぎて、多くの人員を確保しないと容易に落城してしまうという弱点も考慮され、廃城となりました。現在の城跡には、本丸跡、二の丸跡、空堀、武者走り跡、水路跡などの遺構があります。

有井城跡


有井城跡

 1332(元弘2)年、後醍醐天皇の皇子尊長親王が土佐に移された際に、有井三郎左衛門が親王を守った功により安芸国に領地を賜り、一族の者が石内に築城したといわれています。後に毛利家臣である山県備前の居城となりました。当城は段丘上の二つの郭を中心に広がり、背後の丘陵上には畝状竪堀群を持つ郭や帯郭があり、また前方には大規模な水堀を巡らせ、堅固な石垣や、2基の井戸や排水用の多数の溝も構えていることが確認されました。土器や武器などの出土品は市重要文化財に指定されています。なお石内バイパス工事により、城跡の約半分が切り取られました。

向山


向山

 標高666mの石内地区最高峰。山内には「大谷の滝」、「手打が滝」、「奥原の滝」があります。登山口は神原と笹利にあり、大きく4つの登山ルートがあります。山内には自然石が積み重なった「ナンマイ岩」や幸の神社跡、源範頼が平家討伐で九州へ向かう際に、数日陣を敷いたという「源氏大休みの段」といった旧跡があります。山頂から眺望はありませんが、奥原の岩場からは広島湾、市街地等を一望できます。

中講のコウヤマキ


中講のコウヤマキ

 幹回り3m、樹高は県下第一の32m。樹齢100年程で市指定保存樹です。

神原のシダレザクラ


神原のシダレザクラ

 胸高幹囲2.42m、樹高10m、樹齢300年以上の大木。1973(昭和48)年広島県天然記念物に指定されています。比較的寒冷な地を好むシダレザクラが、沿岸に近い温暖な地で大木として成長した唯一の例です。

教徳寺(浄徳寺)


教徳寺観音堂


湯戸のモチヅキザクラ

 境内にある「湯戸のモチヅキザクラ」は、高さ18m、幹の周囲325㎝、樹齢500年以上の大木。モチヅキザクラはヤマザクラとエドヒガンの交雑種で、餅のような白く丸い花をつけることからこの名がついた。県下唯一の例として市保存樹に指定されています。

百石


百石


入り江が広がっていた頃に、湯戸から和田に渡るため設けられた100個ほどの飛び石が、西法寺川の護岸に復元されています。

新藤兼人生誕の碑


新藤兼人生誕の地

 新藤兼人は1912(明治45)年に石内村の豪農の家に生まれるが、父が借金の連帯保証人になったことで没落。父母と3人で蔵の中で暮らした。その蔵は1999年まで保存されていたが取り壊され、現在は石碑が建っている。16歳の時に尾道の長兄宅に居候することになった。隣は大林宣彦の実家で親交を持った。22歳で新興シネマに入り、現像部の雑用として映画人生をスタートさせた。海軍召集を経て、「待帆荘」(1945年)、「お嬢さん乾杯!」(1949年)など脚本家として活躍。1950(昭和25)年に独立プロの先駈けとなる、近代映画協会を設立した。1951(昭和26)年、36歳の時に「愛妻物語」で監督デビュー。その後2012(平成24)年に100歳で逝去するまで、世界最高齢の映画監督としてメガホンを握り続けた。彼の作品は反戦が大きなテーマであり、その他社会派作品、性のタブーにも挑戦した。従三位、広島県名誉県民、広島市名誉市民、文化功労者、文化勲章受章、谷本清平和賞受賞。

滝の観音

 山田に通じる峠道に落差8mの滝があり、横に観音堂が建っています。

滝の観音

おわりに

 以上、広島市佐伯区石内地区の、代表的な史跡を紹介しました。石内には、その他にも様々な名所・旧跡があります。それらについては下の資料にて詳細にまとめておりますので、ぜひご覧ください(21歳のときに作成)。史跡についてのみならず、原爆被害など色々なトピックを取り上げています。




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