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古本屋になりたい: 48 日曜日のさみしさ

 日曜の夜、「クラシック音楽館」を流し見しつつ、本を読んだりコーヒーを飲んだりスマホをいじったりしていると、Moanin'が流れて、はっとなる。
 「美の壺」が始まった。
 もう2時間経ってしまった。

 サザエさん症候群などと言って、日曜日が終わるのを憂鬱に感じる人はたくさんいるようだ。
 今はそんなことを感じなくなったけれど、私にも日曜日が憂鬱だった時期がある。
 社会人としてのほとんどをシフト制の仕事をして過ごしてきたので、土曜日と日曜日は繁忙日であり、休みの日という感覚は元々あまりないのだが、十五年ほど前の一年にも足りないほんの短い期間だけ、月曜日から金曜日まで働き、土日祝は休む、というリズムで生活した。

 当時の私の場合、見ていて憂鬱になったのは「サザエさん」ではなく、もう少し遅い時間に放送されていた、NHKの「世界ふれあい街歩き」だった。
 日曜の夜、ゆったりした気分で過ごすための番組を見て気分が沈むのは、制作サイドの思惑から完全に外れていたと思う。
 しかし、旅人目線のカメラが一日中街を歩き回って、いつしか画面の中で日が傾き始めた頃、番組のテーマ曲が流れ始めるといつも、ああ、これで日曜日が終わってしまう、来週のための用意ができていない、アイデアがないのに会議があり締め切りが迫っている、と重苦しい気分になった。
 好きな番組だったのに、もう観たくないとさえ思ったものだ。

 そんな日々も遠い過去になった日曜の夜の、もっと遅い時間。
 「美の壺」を観ていて、私はなんだかさみしい気持ちを覚えた。
 明日を憂鬱に思う必要がなくなった今でも、当時を思い出すからだろうか。それとも、スマホをいじって無為に過ごした時間を、今さら惜しく思うからだろうか。

 日曜の夜ではなく平日の昼間、再放送の「美の壺」を観ていた時にも、同じようなさみしさを感じていることに気づいた。
 しかしどうやら、そのさみしさは私の内側からやって来るものではない。

 前任の谷啓の甥、という設定で、番組のメインキャストが草刈正雄にバトンタッチして、もう随分経つ。
 草刈正雄は、広い庭と和室のある古い洋館に暮らしていて、裕福な家庭に育ったお坊ちゃんらしい。鷹揚で、少し世事には疎いおとぼけキャラだ。奥さんからの頼まれごとをよく忘れて叱られている。

 草刈家には、さまざまな人が訪れる。
 庭から入ってくる人が多い。
 草刈正雄は和室や、その縁側にいて、訪問者を時に戸惑いつつ招き入れる。
 彼はいつも、困ったような、何かどこかに大切なものを忘れて来たことを思い出したような、すぐにそのことに取り掛かりたいのだけれど今はちょっと無理で…というような顔をしている。眉を八の字にしてアワアワしている。

 インターホンを介さず気兼ねなく入ってくるのは、顔見知りのご近所さんばかりではない。
 華やかな着物を着た刀剣の精。草刈正雄に瓜二つのご先祖様。亡くなった父親。不思議な風体のおじさん。有名人に似た、名前を思い出せない誰か。
 その昔正雄少年が飼っていたのとそっくりな猫など、訪れるのは人(の姿をしたもの)とは限らない。

 姿は見せず、声だけの訪問者も多い。
 宅配便を持ってくる業者さん。学生時代の友人。
 そして、声はすれど、姿を見せない奥さん。一度も見たことがない(と思う)。

 何より、壺の声がある。
 おじさんから譲り受けた壺から聞こえる不思議な声を、草刈正雄は訝りながらも受け入れている。

 もちろん、壺の声はナレーション代わりだ。
 草刈正雄以外、登場人物がほとんどいないのは予算の都合、と言って悪ければ、そういう作り。設定である。
 鑑賞マニュアル、というのが「美の壺」の副題なのだから、言わばバラエティ番組である。番組の中の登場人物を生きている人のように捉える必要はないし、俳優の草刈正雄は「美の壺」の草刈正雄を演じているだけなのだ。もちろん、前任の谷啓の本当の甥ではない。

 私も当然分かっちゃいるのだけれど、それにしても「美の壺」の草刈正雄は、いつもこの世ならぬものばかり見る。草刈正雄自身もこの世ならぬ存在なのではないかと思うほどだ。
 あの屋敷は異界なのではないか。

 「美の壺」を見るといつも私は、草刈正雄とは何者かと考え、日曜日が終わるさみしさを考える。



 この文章を書いたのは半年ほど前で、一応テーマとしている本について、全く触れていないのはどうしたもんかと思っているうちに日が経ってしまった。
 今また私は、平日働いて土日祝が休みの生活をしている。
 やはり、日曜日の夜は過ぎていくのがさみしい。

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