「四つ巴奇譚」第ニ話
芳しい香りが鼻をくすぐる。
遊麻は一瞬で高級旅館の玄関のような場所に移動していた。
(……どういうこと?)
たぶん、木札のせいだろう、ということしか分からない。
が、きっとこれもここではありなのだろう。遊麻の前に立つ二人の男性は、突然人が現れても驚いていない。
「いらっしゃいませ」
笑顔の中にわずかな警戒を含ませながらも、頭を下げた。
丸顔の男性は三十代後半ほど、目元に黒子がある男性は二十歳ほど。二人とも紺色の着物に、翡翠色の羽織を重ねている。
「お札をお持ちですね。しかしなぜお一人で?」
遊麻の持つ木札を見て、丸顔の男が尋ねた。
「……えっと、あの……これを渡されて、そしたらここにいるんですけど……」
「直接渡された、ということでお間違いはないですね?」
口調は丁寧だが、嘘をついたら容赦しない、という圧がひしひしと伝わってくる。
男性達は風早の名前を出さない。これは遊麻が真実を語っているか、見極めるためだ。
(この人達は、大丈夫)
「はい。風早さんから渡されました」
「大変失礼いたしました」
遊麻が風早の名前を出すと、男性達は深く頭を下げた。
「うちの者達がご無礼をいたしました」
その時、奥から四十歳ほどの女性が現れた。漆黒の髪を頭頂近くで束ね、翡翠色の着物に海老茶色の帯を締めている。
きりりとした目元は涼しげであり、どこか艶めかしい。遊麻はちょっとどきまぎした。
「私は翠天樓の樓主、常磐木と申します。以後、お見知りおきを」
「あ、えっと、その……俺は斎藤遊麻です。突然お邪魔して申し訳ありません」
気圧されながら、挨拶を返す。
「いいえ。風早様のやり方に問題が――」
「お話中失礼いたします。お庭の方に風早様がお見えになりました」
そう伝えたのは、紺色の着物に翡翠色の帯を締めた三十代ほどの女性だった。
それを聞いた瞬間、常磐木はわざとらしいため息を吐いた。
女性に続いてやって来たのは、片手に下駄を持った風早だった。今、翼は見えない。狐のように隠せるのかもしれない。
遊麻を見て、にやりと笑う。
「よお、無事に着いてたか」
「さっきはありがとうございました」
遊麻が頭を下げると、風早は空いている手を振った。
「たいしたことじゃねえよ。それと、そんなかしこまらなくていい」
「それで風早様、お客人を一人で寄越すとは、どういう了見です?」
風早に対して、常磐木はだいぶ砕けた感じになった。
「相手が鬼と狐だったからな。鬼はいいけど、狐は分が悪い。だからこいつだけ先に送った。迷惑かけて悪かったな、嘉一」
「驚きましたが、風早様がご無事で何よりでございます」
丸顔の男、嘉一はそう言って安堵の笑みを浮かべた。
「風早様、小間物屋はどうしておいでで?」
「今日は挨拶周りに出かけてる。使いを出してるが、いつ連絡が着くのかは不明だ」
「相変わらず間が悪い人だこと。とにかく、こちらへどうぞ。聞きたいことは山のようにあるでしょうから」
「常磐木姐さん、俺と態度が違い過ぎないか?」
風早がぼやくように言った。
「当然。天神様が選んだお方に粗相があってはいけませんからねぇ」
常磐木はそう言って、意味ありげな視線を遊麻に向けた。
◆
ここは天神様が治める人間と天狗と狐と鬼の世界なのだという。
人間は狐に強く鬼に弱い、狐は天狗に強く人間に弱い、天狗は鬼に強く狐に弱い、そして鬼は人間に強く天狗に弱い。
そんな相克の関係にある四つの種族は、時に争いながらも均衡を保ってきた。
天神様がそうあるようにしたからだという。
その天神様は、時おり他の世界の人間を自分の世界に招き入れ、《天与》という、この世界の者にはない力を与えてきた。なぜそうするのか、は誰も知らない。
とにかく、天神様がそうするから、としか言いようがないのだ。
この世界の者は、天神様が招き入れた者達のことを《稀客》と呼び、同族である人間は稀客を受け入れられてきた。
ところが、ある時から、稀客を喰えば天与が身に付く、という噂が鬼の間に広まった。
真偽のほどは分からない。しかし鬼は稀客達を狙い、襲うようになった――。
手入れの行き届いた庭園が一望できる座敷に、常磐木の落ち着いた声が行き渡る。
(……もう帰れないのか)
遊麻は膝の上で手を握り締めた。
稀客達ということは、帰れる方法はなく、この世界に留まっている、言うことだ。
「この辺り一帯は人間の街。ここは参番町の遊郭、翠天樓でございます」
艶めかしく常磐木が微笑んだ。
(遊郭って、あの遊郭?)
歴史の本や創作の中で得た知識しかないが、どういう場所なのかを思い出し、頬が熱を持つ。
それを見た翠天樓の人達は微笑ましそうな表情になった。
遊麻は誤魔化すために出されていた緑茶を一口飲んで、話題を変えた。
「……あの、なんで俺が稀客だって、分かるんですか?」
「そりゃあ、目立ちますもの」
「目立つ? あ、服とかですか?」
ほとんどの人が和装のこの世界では、サックスブルーの半袖パーカーにブラックジーンズは目立つ。
ところが常磐木は「違いますよ」と手を軽く振った。
「髪は、その短さじゃ気づかないのも無理ないでしょうね。紀作、鏡を持ってきておくれ」
常磐木の背後に嘉一と共に並んで座っていた目元に黒子がある男、紀作は、はい、と静かに出て行った。すぐに黒漆塗りの箱を持って戻ってきた。
螺鈿細工が美しい鏡を渡され、覗き込む。
鏡の中には、見慣れた「黒髪に茶色の瞳をした自分の顔」が映るはずだった。
はずだったのに。
「……誰?」
白に一滴だけ金色を混ぜたような髪と、金色を散らした藍色の瞳をした少年がそこにいた。けれど、顔は良く知っている。間違いなく自分の顔だ。
「……誰? え? まさか、俺? マジで! なんで?」
遊麻の言葉に合わせて、鏡の中の口も動く。右を向いて、左を向く。鏡の中の顔も同時に動く。なので彼は自分だ。斎藤遊麻だ。
「本当に気づいてなかったのか」
呆れたように風早が言った。
「なんで、こうなってんの? これも天神様のせい?」
「天神様は気に入った人間を己の姿に似せようとする、らしい」
「……傲慢」
思わず本音が口に出てしまった。
しまった、と思ったが、
「それが神様って存在なんでしょうね」
常磐木はしみじみと同意を示し、嘉一と紀作も小さく頷く。思い返せば狐も「良い性格をしているお方」と色々含ませていた。
「おい遊麻! お前、ここ来てどれくらい経った?」
突然風早が声を荒らげた。
「え? あー、えっと気絶してたし、二時間くらいは経ってると思うけど」
この世界に来た時は青空が広がり、太陽は頂点に近い位置にあった。それが今は夕焼け空だ。
何気なく指を折って数えようとして、遊麻は目を丸くした。
右手がぼやけて見える。右手だけではない。左手もだ。
周囲の景色に溶け込むように、輪郭が曖昧になっている。指は、まだ動く。感覚もある。けれどその指を透かして、対面に座る常磐木が見える。
「何……これ。なんで……」
「常磐木姐さん!」
「分かっているよ! 紀作、厨から昨日届いた切子を持ってきておくれ!」
「しかし、あれは……」
「いいから。早くおし!」
「へい!」
常磐木の剣幕に押され、紀作は部屋から飛び出していった。戻って来た紀作は木箱を抱えていた。中は水色の切子のお猪口だった。長らく使われていなかったらしく、くすんでいる。
「こんな感じでお願いします」
紀作はお猪口を一つ手に取ると、布で拭いてみせた。
こんな悠長なことをしている場合ではない。その間にも手だけではなく、肘までぼやけてきている。
そう思うのに、体は凍りついたように動かない。
「いいからさっさと磨け! 消えるぞ!」
消える。死ぬ、ではない。不思議な言い方だが、しっくりきた。
弾かれたように遊麻は動いた。
冷えきった手でお猪口を一つ取ると、軽く拭く。
ぱちん、と何かが嵌まったような感じがした。失った何かが戻って来たような気さえする。
四人に見守られながら手を動かし続けると、元のくっきりした輪郭を取り戻した。
「……今の、なんですか? なんで俺、消えそうに……」
「この世界では、数えで七つになると、役割を持たない者は消えてしまうんですよ。私はここの樓主、嘉一はここの番頭、紀作は男衆。風早様は天狗の次期頭領。要は、働かざる者食うべからずってことです」
「……凄い世界ですね」
彼らの焦りぶりから《消える》は《死》とは違う感じがした。この世界の者にとって《消える》ほうが恐ろしいのだろう。
(合理的、とも言えるのか……)
つまりここでは、ニートでも引きこもりでもいられない。
脳裏を母の姿が掠めた。過去に縋って、何もせず、一日が終わることだけを待つだけの人。息子が突然いなくなったことを、今の母はどう受け止めているだろうか。
「もう止めて大丈夫だぞ」
風早の声にはっと我に返った。
「……あ、うん。あのさ、今の俺にも役割ができたってこと?」
「とりあえず、翠天樓の雑用だろうな」
「あら、だったら給金を出さないといけませんね」
どっと笑いが起こる。
その時だった。
「でもさ、もっとおもしろいこと、しない」
飄々とした声が聞こえた。
座敷の中に強い緊張感が走る。
声のした方に首を巡らすと、石灯籠の上に学帽に学生服、マント姿の少年が座っていた。
白に金色を一滴混ぜたような髪と金色が散る藍色の瞳。稀客だ。
「初めまして、新しい稀客君。僕は凪。見ての通り君と同じで、役割は仲立ち屋。どうだい、この世界は?」
中性的な美しい顔に、柔らかな笑顔を浮かべて凪は言った。
その笑顔にぞくりと総毛立った。