「四つ巴奇譚」第三話

 歳も違わない。
 同じ稀客なのに狐より、鬼より、ずっと怖い。本能が、彼に気を許すな、警戒しろと訴えてくる。

「嘉一、その場で待機と皆に伝えてきておくれ。――ようこそおいでくださいました、と言いたいところではありますが、大門の開く時間ではございません。お引き取りを」
「客になりにきたわけじゃない。遊麻君に挨拶に来たんだよ。それと勧誘」
「どうして、名前……」
「僕は顔が広いんだ。でさ、ここの雑用係よりもっと楽しくて、誰かの役に立つことをしない?」
「何が顔が広いだ。どうせ狐から聞き出したんだろ。遊麻、あいつの話には耳を貸すな」

 ぴしゃりと撥ねつけるように風早が言った。

「酷いね。伯笙はくしょう君を騙した君に言われたくないよ」

 凪は困ったような微笑を浮かべて、肩を竦ませた。

「てめぇは自分が何したか忘れたのかよ。でもって次の目的はなんだ?」
「忘れていないよ。でも僕は仲立ち屋だ。僕は僕の役割を果たしただけで、そんなに憎まれる謂れはないね。勝手にこの世界に引きずり込まれた者同士で助け合い、仲良くしたいと思うのは当然だろ?」

 凪は優しく微笑んで手を差し出す。
 怖いと思った相手だ。なのにその手を取ってしまいたいという誘惑に駆られた。

「おい、遊麻」

 風早が声をかけた時だった。
 チリン、と鈴の音が響いた。

「邪魔をする。それと遅くなってすまない」

 現れたのは灰色の髪をした濃灰色の着物に紺色の羽織の和装の男だった。
 五十歳ほどだろう。灰色の瞳は目力があり、凛とした佇まいは、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。

(……どこかで会ったことある、ような気がする)

 だが、それがどこだったのか思い出せない。

「凪、何の用だ?」
「挨拶と勧誘だったけど、あなたがいるなら帰るよ」

 凪は両手を肩の高さに上げ、しょうがないというように首を左右に振った。

「じゃあね、遊麻君。僕はいつでも歓迎するよ」

 凪は軽やかな動作で灯籠から飛び下りた。鈴が鳴る。凪の足が地に着く直前、その姿は消えた。

「君が遊麻だね。私はぜん。小間物屋をやっている」

 深みのある声は芯があり、どこか近寄り難い。常磐木とは別の意味で緊張する人だ。

「よろしくお願いします」

 遊麻はぺこりと頭を下げた。

「ああ、些細なことでも何かあったらすぐに言ってくれ」
「この人はこの街の顔役なんですよ。存分に頼りなさいな」

 嫣然と微笑み、常磐木が言った。

「肩書だけだ。遊麻、狐とはどこで会った?」
「路面電車が走ってて、大きな幟がいっぱいありました」
「壱番街か捌番街か。風早、明日になったら狐に気をつけるよう、使いを出してくれ」
「了解。親父殿は?」
(あの二人って親子? でも風早は天狗で、禅さんは人間だよな……)

 禅と風早の会話を見ていると、紀作が近寄って来た。
「緊張しました? 小間物屋の旦那は誰に対してもああなんですよ。そっちじゃ塩対応って言うんでしょ」

 こっそり耳打ちし、右目を瞑ってみせた。ごほん、と嘉一がわざとらしい咳払いをする。

(結構、向こうの言葉が浸透してる)

 視界の隅で白い物が動いた。

(なんだ?)

 視線を動かした遊麻の目の前を、淡く光る魚が泳いでいく。
 形は鯛に似て見えるが、ひれが長い。その長いひれが動くたびに、無数の小さな光が舞い散り、消える。

「おや、珍しい」

 のんびりと常磐木が言った。誰も驚いていない。空飛ぶ魚を眺めている。

(……魚? 光る魚が、空飛ん出る?)

 そして遊麻は気を失った。

 大きなラピスラズリのような瞳と目が合った。

「こんばんは」

 息を呑むほど美しい少女だった。
 山吹色の着物に紺色の袴、白に金色を一滴混ぜた色の長い髪は、桜色のリボンでまとめている。

「私は綺沙羅きさら。よろしくね」
「俺は斎藤遊麻。こちらこそ、よろしく。君も稀客、なんだよね?」
「うん。いろいろあったけど、大丈夫だった?」
「大丈夫。皆のおかげで怪我とかもないし」

 安心させるように明るく言って笑う。
 なのに綺沙羅の笑顔がほんの少しだけ哀しげになった、ような気がした。

「……あの、凪には気をつけて。この世界がこうなったのは、凪が来て変えてしまったからなの」
「どういうこと? だってここは四つ巴の世界だって」
「昔から争うこともあった。でも、必要以上には関わらない、相互不可侵みたいな感じでもあったの。凪は自分の役割は仲立ち屋だからって、狐と鬼の橋渡しをして」
「橋渡し?」
「鬼は天狗に弱い。だから凪は天狗に強い狐との仲を取り持った。狐が鬼のために天狗を襲い、鬼が人を襲うようになった。それから、稀客にが警戒されるようになったし、稀客同士でも」
(……だから)

 この世界に来た時に向けられた視線の種類はいくつもあった。その意味に気づいた。
 稀客は人間だ。けれど人間にはない力を与えられている。
 その稀客が人間の敵になった。
 同じ稀客の遊麻が、凪の仲間になったら。
 凪とは手を組まなくても、何かするかもしれない。
 あの視線はそんな疑惑の現れだ。

「あのさ――」
『――鼻でも摘んでみますか?』

 話し声が聞こえてきて、遊麻は口を閉じた

『それは駄目よ。起きないのは疲れているってことでしょう』

 風早と、知らない女性の声だ。

『話はまだ全部終わってません。朝まで起きなかったらどうすんですか?』
『それならそれでいいじゃないの。第一、話し合いは明るい時にするものよ。あら、でも何時間も食べないのは体に良くないわ』

 綺沙羅が小さく吹き出した。それなのに切なそうな、苦しそうな目をしている。

「ごめんね、今はここまでみたい」
「どういうこと?」
「大丈夫、もう少ししたらまた会えるから」

 綺沙羅の姿が遠くなる。

「え? ちょっと待って! まだ」

 遊麻が手を伸ばしながら飛び起きるのと、襖が開くのは同時だった。

「元気過ぎるな」
「うるさかったのかしら」

 呆れたような顔をした風早は、栗色の着物の女性と一緒だった。
 三十代後半ほどだが、まとう雰囲気はふんわりしていて、どこか少女めいた印象がある。

「こちらは緑香りょくかさん。親父殿――禅さんの細君」
「初めまして。今日はうちの人が遅くなったみたいでごめんなさいね。あの人、どうも間が悪くて。今も寄り合いで留守なのよ。体調はどう?」
「はい、大丈夫です」
「良かったわ。さあ、こっちへ来て」

 緑香はにこりと笑い、手招きした。

 外は夜になっていた。
 気を失った遊麻は、小間物屋に運ばれていた。店を開けた翠天樓には置いておけないから、ということだった。

「ごめんなさいね、残り物で。でもお代わりはいくらでもあるから、遠慮しないで」

 緑香は居間のちゃぶ台に手早く二人分の食事を並べていく。

「まさか俺も?」
「一人で食べるのは寂しいでしょ。あなたの分は少し減らしてあるわよ」

 そう言うと緑香は出て行った。

「食うか」

 風早は座ると手を合わせ、箸と量の少ない茶碗を手に取った。遊麻も風早に倣う。
 焼いたししゃもに、海苔と胡麻という茶漬けだった。湯気の立つだし汁の香りが食欲をそそる。そこに緑香の自慢だという梅干しが添えられている。

「……魚。そうだ、魚!」
「嫌いか?」
「好きだけど、そうじゃなくて、さっき魚が空飛んでただろ!」
「夜光魚のことか。そっちの世界にはいないんだったな。夜行性で、昼間は水辺にいて、日暮れになるとああやって飛ぶ。あんまり街の方には来ないが、珍しいもんじゃない。小骨ばっかで、身は硬いしで食えたもんじゃないけどな」
「食べた? あれを」

 鯛には似ていたが、食べたいとは思わなかった。というか、食べられるとも思わなかった。

「魚だし。子供でも簡単に捕まえられんだよ。もっとも、こんな不味いものって親に怒られるか、食べて後悔するかのどっちかだけどな。それより食べろよ。冷めるし、緑香さんがお代わりよそいに来るぞ」
「まだ一口だって食べてないじゃないですか。でも、若いんだからたくさん食べなきゃ駄目よ」

 戻って来た緑香は湯呑み茶碗を置きながらそう言った。
 口調は穏やかだが、「お代わり」を心待ちにしているのをひしひしと感じる。
 とはいえ、そう言って貰えるのは久しぶりで、遊麻は純粋に嬉しかった。
 遊麻は緑香に「いただきます」と頭を下げ、食べ始めた。
 茶漬けはまろやかな旨味の中に塩味を感じ、ほどよい温かさとともにじんわりと身に染みる。
 遊麻はぺろりと平らげ、二杯おかわりした。緑香は嬉々とし、風早は少し呆れていた。

「なあ、俺と凪以外の稀客って何人いるんだ?」

 食事を終え、風早に尋ねた。

「他に五人。会いたいのか?」
「うん。迷惑かな」
「一人は高齢で体調が良くないから、難しいだろうな。この近くにもいるが……」

 風早はちらりと遊麻の頭を見て、言い淀む。

「俺のことっていうか、新しい稀客をよく思わない?」
「……凪の一件以来、他の稀客に対してどうも、な。てか、なんでお前知ってんだ?」
「えっと、信じられないかもしれないんだけど、夢で綺沙羅って女の子に聞い――イッ!」
「なんでお前が知ってる!」

 鬼気迫る形相で風早は遊麻の両肩を掴んだ。背中で黒い翼が威嚇するように広がる。

「風早、遊麻が目を、何をしている!」
「なんの騒ぎ、風早さん何をしてるの!」

 帰ってきた禅が慌てて風早を引き剥がす。台所にいた緑香もやって来た。

「悪い、怪我はないか?」
 風早は思いっきり低く頭を下げた。
「大丈夫。あの俺、変なこと言った?」
「いや、お前は何も悪くない」
「だとしたら、一体何があった?」

 禅に問われ、風早は冷静さを保つように、深く息を吐いた。

「親父殿、遊麻の夢に綺沙羅が出たらしい」

 緑香が小さく声を上げ、目を見開いた。

「本当なのか?」

 掠れた声で禅が尋ねた。その表情からは焦りと心配が感じ取れる。

「あの、知り合い、なんですよね?」
「ああ。綺沙羅は私の娘だ」
「娘?」

 遊麻は目を丸くした。