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【短編小説】胡蝶の夢

 会社を出るといつも通り外は真っ暗だった。その暗さに、のしかかった疲労がずしりと重みを増す。ああ、疲れた。体を引きずるようにして駅の方向へ向かった。
 駅前といえども平日の夜は人の往来が少ない。それは、大抵の人はとうに仕事を終えて帰宅しているということだ。胸にしまい込んだつまらない気持ちが顔を出す。
 夜道を店の明かりが照らしている。上半分がガラス張りになった引き戸から居酒屋の店内が見えた。カウンターに定員ぴったりの客が肩を並べて談笑している。歩道側に座った女の人と一瞬目が合って、逸らした。賑やかな笑い声がするそこを通り過ぎる。
 駅を越え、コンビニに入った。お腹が空いているはずなのに何を食べたいのかわからず棚を行ったり来たりしてしまう。早く帰りたいのに決められない。最終的には、これでいいやと投げやりな気持ちで商品をレジに持って行った。
 そうしてアパートに着いたのは二十時半を過ぎた頃だった。コンビニの袋をローテーブルに置いてソファに体を沈める。ああ、疲れた。あふれるようにしてため息が出る。
 とりあえずテレビをつけてチャンネルを回し、適当な番組をぼんやりと眺めた。それからスマートフォンを手に取りSNSに目を通す。しばらく無駄な情報を流し見した後、ようやく食事をとった。
 仕事をしてご飯を食べてお風呂に入って寝る。毎日がその繰り返し。生きるために仕事をするはずが、いつの間にか仕事をするために生きるようになっていた。
 わからないなりにがむしゃらに頑張った就職活動は残念ながら失敗だったらしい。入社三年目を迎えて私はようやく理解した。本当はもっと早い段階でうすうす勘付いていた。それでも気づかないふりをしていたのは、失敗を認めるのが怖くて悔しくて恥ずかしかったからだ。
 我ながらくだらない理由だと思う。それでも、入社して間もない頃の私にとっては重大なことだった。時間をかければ自分も仕事に適応できるはずだと思っていたから、会社選びを失敗したと認めてしまえば二度と頑張れなくなりそうで怖かった。何より、自分だけがうまくいっていないと思いたくなかったし友達にもそう思われたくなかった。その結果が今だ。
 動くことを拒否している体を無理やりソファから引きはがして、寝る準備を終える頃には二十三時半を回っていた。あと九時間も経たないうちにまた仕事が始まる。うんざりしながらたばこに火をつけた。
 一年目のときに先輩からたばこをもらって以来ずっとやめられずにいる。体への害なんてどうでもよかった。吸ったところで現実は少しもましにならないけれど、吸っている間は現実から離れていられる気がした。
 このごろはずっと気分が晴れなかった。仕事のことを考えてしまうから意識がある状態が辛かった。ベッドに入って目を閉じ、眠りに落ちるのを待つ。
 暗闇の中で想像をめぐらす。目が覚めて、今までのことが幻だったらどれだけいいだろう。就活をする前に戻れたなら。今の会社さえ存在しなければ。いっそ、このまま目が覚めなければ……。非現実的な願いを繰り返しているうちに意識は闇の中に少しずつ溶けていった。

***

 夢を見た。
 目の前には夕暮れの海が広がっている。日没を前にした藍色の海。陽の光に照らされて海面は橙に輝く。空は水色、黄色、橙、暗い紫のグラデーションを成し、遠くには薄い雲が広がっている。穏やかだけど大きい波の音。海鳥の甲高い鳴き声が切なげに聞こえる。潮の匂いを運ぶ風に髪がなびく。砂浜に足が沈んでうまく歩けない。
 夢だとわかっていても目の前の景色に目を奪われた。私は何年も海に行っていない。それどころか、夕焼けすらとても久しぶりに見た気がした。夕焼けってこんなに大きくて綺麗だったっけ。私が知っている空は建物に切り取られた空間でしかなかった。
 景色に見入っていると、ふと背後に人の気配を感じた。振り向くと女の子が立っていた。年齢は私と同じくらいに見える。目が合うと彼女はにっこり微笑んだ。
 ほとんどの場合、こうして夢に出てくるのは顔見知りのはずだ。しかし私は彼女に見覚えがなかった。不躾だとは思いながらも彼女の顔を凝視してしまう。
 「あの」
 どれだけ見つめても心当たりがなく思い切って口を開いた。夢の中なのだからそう固くなる必要はないだろう。
 「私たちって、どこかで会ったことあります……?」
 女の子は微笑んだままゆっくりと首を横に振った。
 「ううん。初対面だと思う」
 言葉とは裏腹に顔見知りのような軽い口調で彼女は言った。面食らいつつもおかげで肩から力が抜ける。
 「そうだよね」
 そう返事はしたが、知らない人がこんな風に堂々と夢に出てきているという事態に戸惑っていた。彼女はと言うと特に気にした様子もなく、私の隣に歩み寄り砂浜に腰掛けた。彼女の白いルームウェアが汚れてしまいそうだと思ったところで、そういえばこれは夢だということを思い出す。なんとなく私も砂浜に腰を下ろした。
 「名前、なんて言うの」
 海の方を見つめたまま彼女は言った。私も暮れていく空を見る。西日の橙の光が眩しい。
 「なつな。夏に凪で夏凪」
 砂浜に指で文字を書いた。乾燥したさらさらの砂。書いた端から文字が潰れて見えなくなる。それを見て彼女も砂浜に人差し指を刺した。
 「私はとおか。透明の透に香りの香」
 名は体を表すという言葉が頭に浮かんだ。細身で肌の白い彼女はどこか儚げでミステリアスな雰囲気がある。私とはまったく違う人生を送ってきたんだろう。
 透香がおしゃべりなタイプでなければいいなと思う。大抵こういうときは身の上話になる。夢の中でまでそういう話はしたくなかったので私は黙っていた。
 「海なんて久しぶりに来た」
 横で透香が呟く。
 「空も海も、こんなに大きいんだねぇ」
 予想だにしない発言に思わず彼女の顔を見た。夕日を浴びて肌も髪も服も橙の色味を帯びている。その中で茶色い瞳がひと際きらきらと輝いていた。
 「わかる」
 思わず声に出ていた。私も透香と同じことを思っていた。目が合って、彼女は破顔した。そして急に立ち上がって波打ち際まで走っていった。
 「せっかくだから泳ごうよ!」
 彼女ははしゃいだ様子で飛び跳ねている。おとなしい子だと勝手に思い込んでいたけれど案外活発なタイプなのかもしれない。私も波打ち際まで走った。砂の感触が変わるのを足の裏で感じる。水分を含んで固くなった砂はひんやりと冷たい。
 透香の隣に並ぶ。彼女はルームウェアが濡れるのにも構わずざぶざぶと海に入っていく。
 「わー、思ったよりあったかい!」
 膝まで水に浸かった彼女はきゃははと笑っている。お腹の底と、心の底から出ているような笑い声。羨ましくなって私も後に続いた。角のない冷たさが膝下を包み込む。着ていたルームウェアのワンピースが肌に張り付く。服のまま海に入るなんて現実ではできない。いけないことをするのは楽しい。喉の奥から笑いがこみ上げてくるのがわかった。
 そのままざぶざぶと海の中に足を進めていく。押し寄せる波が体にぶつかって砕け、飛び散った水が腕やワンピースに跳ねる。あっという間に胸の辺りまで水に浸かった。
 「潜るよ! せーの!」
 透香は唐突にそう言って、大きく息を吸い込んでから勢いよく頭を沈めた。私も慌てて息を吸い込み、潜る。耳に水が入った。頭の先まで水の冷たさに覆われ、別世界に来たように音が消える。目を閉じた暗闇の中で波に体が揺られる。
 懐かしい。子どもの頃を思い出した。私はプール教室に通っていた。水の中で目を閉じるのが好きで、そうしているうちに眠ってしまいそうになったことがあった。もしあの時本当に眠っていたらどうなっていたんだろう。死んでいたのかな。
 ぼんやりと思う。夢の中で死んだら現実の私はどうなるんだろう。
 その時、腕を掴まれる感触がして引っ張り上げられた。大きな水音とともに世界の音が蘇る。
 「大丈夫?」
 びしょ濡れの透香が私の顔を覗き込んだ。
 「全然上がってこないし、動かないから気絶してるのかと思った」
 透香がセミロングの黒髪をかき上げる。現れた額が白い。長いまつ毛は濡れて束になっていた。死ぬことなんて彼女は考えもしないだろう。彼女にはわからない。
 「寝そうになってた」
 「えー! 何それ」
 適当にごまかすと透香は笑った。私も顔を拭い短い髪をかき上げる。
 「さっき思い出したんだけど、私泳げないんだよね。浮き輪とかないのかな」
 透香は砂浜の方に目を凝らした。私もそちらに目を遣るが視力が低いのでよく見えない。砂浜には海藻やがらくたが打ちあがっているだけだったはずだ。
 「引っ張ってあげようか」
 「え?」
 透香がこちらを見る。
 「……透香ちゃんが足バタバタして、私が腕を引っ張る。それなら泳げなくても大丈夫」
 透香と呼べばいいのか、ちゃんを付けた方がいいのかわからずぎこちなくなる。彼女は顔をほころばせた。
 「透香でいいよ。私も夏凪って呼ぶから。じゃあ、はい」
 透香が両手を差し出した。白いルームウェアが張り付き彼女の腕の細さを浮き彫りにする。私はおずおずとその手を取った。ゆっくりと歩き出す。透香の足が水底を離れ体が浮き上がる。波に揺られながら彼女の体が水の上を滑っていく。
 「おおー、楽ちん!」
 「足動かしてよ」
 「えー」
 冗談めかしながら透香の足が緩やかに水をかき始める。握った手に振動が伝わってくる。
 ほのかな喜びと期待が胸の内にゆらめいているのを感じ、慌ててその火を吹き消した。私が特別なわけではない。透香は誰にだって同じように接する。それに、他の人がここにいれば透香は間違いなく他の人のところに行くはずだ。私と透香は違うのだから。
 そもそもこれは夢だ。透香も夢の一部。いずれ消えてしまう。そういうものに感情を抱くのは変だし、無駄だ。そう言い聞かせる。
 「ほんとに泳いでるみたい」
 腕の向こうで透香が嬉しそうに笑っている。それを見ていると本当に心を開かれていると錯覚してしまいそうで目を逸らした。
 「防波堤のところまで行こうか」
 私の後ろ側、少し離れたところに防波堤が見える。距離にして十五メートルくらいだろうか。
 「うん。じゃあ、スピードアップ!」
 そう言うと透香は急に足をばたつかせた。バシャバシャと音を立てて水が飛び散る。透香に押されるようにして後ろ歩きのスピードを速めるが、水の中なので思うようにいかない。
 「ちょっと待って。そんなに早く歩けないって……」
 あっという間に追いつかれ、透香の頭が私の胸に触れた。彼女はそのまま私の体に腕を回しじゃれついて笑った。その距離の近さに戸惑う。そうしているうちに何事もなかったようにするりと彼女は離れていく。
 「バタ足って結構疲れるねぇ。ね、向こう探検しよ」
 透香は波をかき分けさっさと砂浜の方へ向かっていく。恐ろしい切り替えの早さだ。小さい子どもを連れた親はこんな気分なのだろうか。私はやれやれとその背中を追った。
 ルームウェアはすっかり水を含んでびしゃびしゃに濡れている。海から出るとワンピースからばたばたと水が滴った。
 透香はセパレートになっているルームウェアの上を脱ぎ、軽く畳んで砂浜に投げた。キャミソール姿になった彼女は漂着物を前にうきうきと歩き始める。
 「なんかおもしろいものあるかなー」
 私も浜辺に落ちているものを眺めるのは好きだった。漁で使う浮きや網。外国語が書かれたプラスチックのボトル。テトラポットの隙間に不法投棄された扇風機。時にはクラゲなどの生き物が打ちあがっていることもある。珍しいものやきれいなものを見つけると特に嬉しい。
 大学時代、友達とレンタカーを借りて海に行ったことがあった。その時拾った貝殻を今でも玄関の棚に飾っている。けれど、それがどんな貝殻だったのか思い出せなかった。あの時は確かにきれいだと思ったのに、貝殻は日常に埋もれて輝きを失っていた。海という場所が貝殻を輝かせるのかもしれなかった。
 「何これ」
 透香が何かを拾い上げた。それは平たく丸い石のように見えた。中央には花のような模様がついている。白のような灰色のような色をしていて、手にのせてみるとざらざらしていて軽かった。これが一体なんなのか見当もつかない。
 「なんだろ。初めて見た」
 「私も。お花みたいでかわいいかも」
 透香はにこにこしながら石を手にのせたままでいる。拾っていくらしい。
 少し歩くと見覚えのあるものが目に入った。それは透香の拾った石とよく似ていた。
 「ここにもある」
 「ほんとだ。案外たくさん落ちてるのかな」
 透香はその石を見つめ、また拾い上げた。
 「いいこと思いついた。この石をたくさん拾った方の勝ち! よーいドン!」
 唐突に宣言すると透香は駆け出した。一人取り残された私は仕方なく砂浜に目を落とす。透香の言う通り、平たい石はそれなりに打ちあがっているようだ。さほど苦労せずに一枚、また一枚と集まっていく。
 ひとつひとつのことにいちいちはしゃいで喜べる透香みたいな人のことを天真爛漫というのかもしれない。私とは大違いだ。彼女のように生きられたら何かが変わっただろうか。劣等感を抱くことも嫉妬することもなく、自分のことも他人のことも嫌いにならずにいられただろうか。
 いつからかそんなことばかり考えるようになっていた。私は私というおもりをつけて生きているような気がしていた。
 平たい石を探して辺りを見回す。この辺りにある石は拾い切っただろうか。ワンピースのお腹の部分についたポケットには十を超える数の石が入っている。歩くと石がこつこつとぶつかり合った。
 透香の走っていった方向を目指す。ふと顔を上げると波打ち際でしゃがみ込んでいる彼女の姿が見えた。言い出しっぺはとっくに石探しから離脱し砂を掘り返していた。
 「石探しは?」
 「こっちにあんまり落ちてなかった。だから城作りに変更!」
 透香はあっけらかんと言った。私が拾った石はどうなるのだ。
 「私は結構見つけたけど」
 私も近くにしゃがみ込みポケットから石を取り出して砂浜に並べた。大小様々の石は全部で十三個。
 「お城の飾りにしよう。絶対かわいいよ」
 そう言うと透香は立ち上がり、押し寄せる波に手のひらを浸した。手に付いた砂を流しているらしい。それからこちらへ来て石をじっと見た。二つを手のひらにのせ、そのうちの一つを私の方に差し出す。
 「記念に持ってよう。お揃い!」
 透香の笑顔には屈託がない。私はおずおずと手のひらを差し出し石を受け取った。これを現実に持って帰ることはできない。でもそれは断る理由にはならなかった。頷いて、軽く砂をほろってから石をポケットにしまう。
 透香は引き続き砂を掘り始め、集めた砂を手で押し固めた。彼女の隣に行きなんとなく私も砂を掘る。こうして砂に触るのは久しぶりだ。友達と海に来たときは手や服が汚れるのが嫌であまり砂を触らなかった。水分を含んだ冷たい砂が爪の間に入るのがわかる。
 「どんな城にするの?」
 「土台の上に塔立てようかな。三本くらい」
 土台は直径三十センチほどの円形で高さは十センチに満たない程度だ。まだ高さを出すつもりなのか透香は土台の上にさらに砂をのせていく。私もそれに倣った。繰り返していくうちに土台の高さは十五センチほどになった。チョコケーキみたいと透香は笑う。
 子どもの頃の記憶がふと蘇った。実家から少し歩くと砂場付きの公園があって、そこで砂のケーキを作っていたような気がする。仕上げに乾いた砂を振りかけ、木の枝でハートや星の絵を描いて……。
 砂場にしゃがみ込む小さな女の子の姿を思い浮かべる。想像を巡らせ夢中で手を動かしている彼女にはなんのしがらみもなく、自由だった。私はどうしてこうなってしまったんだろう。
 ぼんやりとそんなことを考えている間に、透香は土台に人差し指を軽く当て直径十センチ強の円を三つ描いていた。透香は右側、私は左側の円の上に塔を作ることになった。奥の円に三本目の塔を作る計算のようだ。
 「ホールケーキなんて何年も食べてないなぁ」
 「私も」
 「見てたら食べたくなってきちゃうね」
 塔は土台に比べて使う砂の量が少ない。さほど時間をかけなくてもそれらしい形になっていく。塔と塔の間は狭いので、透香の手とぶつからないよう気を付けながら砂を押し固める。
 「何も気にせず好きなものたくさん食べれたらいいのになぁ」
 そう呟きながら透香は塔の上に三角屋根を作ろうとしている。塔を崩さないように注意深く指先を押しつけている彼女をじっと見た。彼女は華奢そのものだった。身長は私よりも高いけれど細身だから小さく見える。何を気にすることがあると言うのか。
 私はと言うと仕事のことを考えないようにするために頻繁にアルコールに頼っていた。普通体型だと思っているし、体型の変化もあまり感じていない。気にしないようにしているとも言える。でも体重計を持っていないから実際のところはわからない。
 はたと思った。
 「夢ならなんでも好きなだけ食べれるのに」
 透香はきょとんとして、次いで吹き出すようにして笑った。
 「いいね、それ。そういう夢見たい」
 透香は私の正面に回って三本目の塔に取り掛かった。私は左側の塔の屋根を作り始める。力加減が難しく右の塔との距離も近いので神経を遣う。
 屋根を作り終え、平たい石を手に取って二つの塔の壁に慎重に押しつけた。右の塔に三つ、左の塔に四つ。黒っぽい色の塔に白い石のラインが映える。確かにおしゃれかもしれない。
 塔は右、左、奥の順に背が高くなっている。高さに差がある方が見栄えがいいからだ。奥の塔は一番背が高いので作るのに少し時間がかかる。透香の隣に移動して砂を積み上げるのを手伝った。
 全身濡れたままでいるけれどさほど寒さは感じない。時折、潮風が当たって濡れた体をひんやりとさせるくらいのものだ。
 「小さい頃、海に来た後熱出しちゃったんだよね。それ以来海もプールも行ってないんだ」
 透香が静かに話し始めた。
 「でも、今日で全部取り戻したって感じ。十年以上の空白を」
 十年以上。はっとするとともに透香のこれまでのはしゃぎ様に納得がいった。海も風も貝殻も砂浜も、全部。全部に触れて味わいたかったのだ。私は何も言えなかった。
 「夏凪のこと、振り回しちゃったけど……楽しかった。ありがとう」
 透香は柔らかく微笑んだ。色素の薄い瞳に自分の姿が反射して見える。咄嗟に、振り回されようが構わないと思った。透香がこれまでを取り戻せるのならそれでよかった。忠告する心の声に耳をふさいだ。
 「私も……楽しかった。今日で何年分も堪能した」
 よかった。そう言って透香は笑った。

 「完成!」
 透香は三本目の塔に五つの石をつけた。立ち上がり、少し離れてぐるぐると城の周りを回る。
 「めっちゃかわいい! 写真撮れないのがもったいない!」
 透香が興奮気味に言う。円形の土台にアシンメトリーな三本の塔。花のような模様が入った白い石。それなりに時間をかけて作ったこともあり、ただ作って終わりでは確かにもったいないような気がする。せめて目に焼き付けようと色々な角度から城を見た。
 ふと気が付くと透香は波に近いところに腰を下ろしていた。彼女はそのまま足を投げ出し背中を地面に付けた。足先で波を受けながら寝転がっている。
 「何してるの?」
 透香の隣に立ち、地面に張り付いている彼女を見下ろす。
 「これ、すごいよ。夏凪もやってみて」
 透香は空を見上げながら答えた。横になれば髪や肌、服にだって砂がつくだろう。夢だとわかっていてもなんとなく躊躇してしまう。透香に急かされ仕方なく体を砂浜に横たえた。
 そうして見える景色に私はくぎづけになった。視界いっぱいに水色の空が広がっている。わずかに黄みがかった、透き通った優しい水色。白や灰色の雲がゆっくりと流れていく。正真正銘、遮るもののない空。私の視界にあるのは空だけ。
 大きな空だけを見て、波の音を聞き穏やかな風に吹かれている。そうしていると、自分自身がなくなってこの場所と一つになっているようだった。悲しいことも苦しいことも、自分という存在とともに消えた。
 その時、指先が透香の手に触れて体の感覚が戻った。驚いて指先が跳ねる。彼女は気にした様子もなく視線は空に吸い込まれたままだった。
 「すごいよね」
 透香が言う。
 「こんな風にして空を見たことなかった」
 「私も」
 再び空を見上げる。
 「なんか、こうしてると全部どうでもよくなる」
 「わかる」
 「ずっとこうしていられたらいいのに」
 わかる。言葉を返す代わりに透香の小指を指先で軽く握った。私も同じだった。
 それきり私たちは何も言わなかった。ただ空と風の中に溶けていた。

***

 ピピピピピ。ピピピピピ。
 アラームの音で目が覚めた。ああ、朝か。そう認識した途端にすさんだ気持ちになる。ベッドから体を引きはがすようにして起き上がる。ローテーブルの上のスマートフォンを触ってアラームを止めた。そのままソファに座り込む。
 夢を見ていた。不思議で、けれど醒めてほしくなかった夢。あの場所にはもう戻れない。透香ももういない。最初からわかっていたことだ。いずれは目が覚めるし夢は跡形もなく消える。それでもあの場所に戻りたくて仕方がなかった。切なくて抱えた膝に顔をうずめた。
 しばらくの間そうしていた。やがて仕方なく立ち上がり洗面所に向かった。今日も会社に行かなくてはならない。これが私の生きる現実だ。
 洗面と歯磨きを済ませ部屋に戻る。ワンピースを脱いでベッドに放り投げようとした時、指先に固い感触があった。ワンピースを広げて確かめる。それはポケットの中に入っていた。平たく白い石。中央に花のような模様がついている。透香とお揃いの石。どうしてここに。
 あれは確かに夢だった。そのはずだけれど石は今私の手の中にある。にわかには信じがたいことだ。それでも石のおかげで信じることができた。あの夢は現実と繋がっているのかもしれない。
 窓に近づけばビルの隙間から青い空が覗く。この現実のどこかで透香も闘っているのかもしれない。そう思うと前に進める気がした。白く輝く石をそっと握りしめた。

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