シュガーローフの今と昔 1
沖縄戦のシュガーローフでの戦闘は、沖縄戦の中でも激戦だったと言われていて、1週間同じ場所で戦闘が行われていた。なぜ、地獄の丘や消耗戦と言われていてなかなか決着がつかなかったのか、また、現在のシュガーローフがどうなっているのかが気になり記事にすることにした。
シュガーローフとは?
日本軍の首里防衛の西の要衝で、米軍の第六海兵師団と激しい攻防戦が展開されていた丘陵地。日本軍の首里の司令部を守る最大の防衛ラインとしてシュガーローフ・南側ホースシュア・東側ハーフムーンの3つの防衛地で戦いが繰り広げられていた。戦前、地元で慶良間諸島が眺望できることから慶良間(キラマ)チージと呼ばれていたりすりばち丘と呼ばれていたりと呼び方がさまざまある。
このシュガーローフでは、1945年5月12日から1週間に及ぶ頂上の争奪戦が繰り返された。この1週間の戦いは、日米双方にとって消耗戦だった。
戦闘の経緯
5/12~5/15
シュガーローフに米軍海兵連隊の、G中連隊・E,F中連隊は攻撃をしたが、激しい日本軍の十字砲火や迫撃砲攻撃により、兵力はみるみる減少していった。
大隊本部は、深夜になって炊事兵や通信兵、憲兵をかき集め、丘に送り込んだものの夜中には丘を維持できなくなる。さらに、午前3時ごろには新たな増援としてK中隊を送り込んだ。しかし日本軍は攻撃の手緩めず、頂上部では稜線を挟んで、激しい手榴弾の投擲(とうてき)合戦が続いた。
D中連隊が、シュガーローフの支援に向かい、丘を維持していた舞台と交代したが、視界が開くようになった日本軍は、周囲の丘からシュガーローフに十字砲火を浴びせて、海兵隊をシュガーローフの周辺部からも一掃した。
5/16
5日目にしてようやく米軍は、2つの丘からなる日本軍の防御網の全体像を把握しはじめ、シュガーローフ、ハーフムーンを同時に攻撃しなければ、残った丘から十字砲火を浴びて撃退されてしまうことに気づきはじめていた。この日は一個連隊の兵力を動員しての総攻撃を実施した。しかし、またしても十字砲火を浴びて撃退されてしまい、撤退中の舞台にも容赦無く銃弾が浴びせられ、死傷者は増大。この日も丘を掌握できず・・・
5/17~5/18
17日の日没までにハーフムーンの一部を掌握し、翌日の攻撃路を確保した。日本軍もこの時、絶え間ない空爆や、夜間の切り込み攻撃などにより、かなり消耗していたため、陸軍の正規兵の姿は少なくなってきていた。
17日の攻撃でハーフムーン北側の進入路を確保しており、有利な位置から攻撃を開始した。日本軍もすでに消耗していたため、この日、初めてシュガーローフの南側まで戦車隊を前進させることに成功し、反対側の斜面も戦車隊が掃討し、ついに、シュガーローフが米軍の手に落ちた。
まとめ
5/12~18の1週間の戦闘は日本軍の巧妙なシュガーローフでの作戦とシュガーローフの罠にハマった米軍との激戦だった。日本軍の死傷者の数の記録がないそうで明らかにされていないが正規の兵士意外にも、学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した。米軍はこの1週間の間に死者2662人、極度の精神疲労者1289人を出した。日本軍からも米軍からも、多数の死傷者を出したことから激しく、残酷な戦いだったことがわかった。
シュガーローフでの戦いは教科書では習わない内容なので、こんな激しい戦闘があったことを知ることができてよかった。この貴重な歴史の記録は後世にも伝わっていくべきだと思った。
出典
Department of Defense Photo - SUGAR LOAF HILL, western anchor of the Shuri defenses in Okinawa 1945, seen from a point directly north. http://www.ibiblio.org/hyperwar/USMC/USMC-M-Okinawa/img/USMC-M-Okinawa-p179.jpg
沖縄戦史 公刊戦史を写真と地図で探る 「戦闘戦史」
シュガーローフの戦闘 (日本軍名称 安里52高地の戦闘)
那覇市歴史博物館公式サイト
5channel CATCHY サイトより