愛するということ を読んで
エーリッヒ・フロムの翻訳本。
読んでみると結構難しいのに、図書館では人気そう。みんなすごい。
難しさに目線が滑って内容が入ってこないところも多いのだけど、グッと来るところもあるから期待して読み進める。
全部を理解するには三回くらい読まないとかな、もっとかな。でも一回目で響いたところを抜粋していく。
私はこれまで、人間と動物でいったい何が決定的に違っているのか納得しかねていた。二足歩行とか脳の発達とか、それは特徴的な進化ではあるけれども、動物と一線を画すものとは思えない。火の利用や文字の利用も同じように。
でもフロムのいう人間と動物の境界線「環境にたいして本能的に適応する世界から抜け出した」は、スッキリした。
私たちは自然界から少し離れて生活するようになった。鉄筋コンクリートで雨風を凌ぎ、人生においては、働いて金を儲けるなど、自然に順応する以外の生活をしているところが大きい。それは他の動物とは相いれない特徴だ。
うーん、でもそれだと、伝統的な暮らしをする狩猟採集民は動物にほど近いのかもしれない。・・やっぱりわからなくなってきた?
そもそもこの人、キリスト教的な思想が根底にあるようだけど、それはさておき、この主張についてはなるほどと思わざるをえない。
浅く言い換えてしまえば、人間は社会的動物であるということだろう。
どの時代においても「孤立」は最も恐れるものである。
三大欲求以前に、孤立をしたくないという欲求がある、それはその通りだ。
安直だけど、人から嫌われることは社会からの孤立への第一歩になりかねないから、恐怖の対象なのかもしれない。
ドキッとする話。
人間が「他の人とちがっていたい」という悲痛な願いをもちつつも、実際にはほとんど違っていない、という。
私たちが個性だと思っているものは、いったいどこまで個性なのだろう。
実際には「みんな共通して同調したがってる部分が多い」と言われると少し嫌気がさす。そしてこの気持ちこそが「他の人と違っていたい」という思いにほかならないのだろう。
尚、このほとんど違いがないという傾向は、先進国の「平等」の概念と密接な関係があり、発達しているとのことだった。
私たちは「平等」と「同一」を履き違えている、ということらしい。言われてみればそうだ。
「平等」を懐疑的に見ることなく、目指すべきものだと信じている。
差異をなくすことに専念し、私たちの社会が実現できたのは「平等」なのか、果たして「没個性の同一化」なのか、履き違えてはならなさそうだ。
ここから、恋愛の話。
友愛、母性愛と比較された恋愛の定義がされている。
恋愛は、他の人間と完全に融合したいという願望。
私はパートナーを、私の弱い部分を補完してくれる存在だと思っている。
二人でいれば大丈夫。パズルのピースがハマってひとつの形になったみたいに、安心感がある。
一心同体。それはまさに「他の人間と完全に融合したい」という願望だといえそうである。
DNAが遠い者どうしが惹かれあう、という話もきいたことがあるが、これも足りない部分を補いあい、自分の子孫をより強くしたい、という本能の求めあいなのかもしれなくて、その間にもうける子供はまさに「他の人間と完全に融合」した存在であるといえる。(子をもうける過程の"行為"も融合。)
フロムの生きた時代における「現代」(1~半世紀ほど前)の西洋社会では、愛は意志の行為だというのはとんでもないまちがいだとされていたという。
愛は意志とは無関係に自然に生まれるものであり、自分ではコントロールできない感情に突然捕らわれるのが愛である、と。
恋愛を、運命的で激情に突き動かされる壮大なものに昇格したいのかもしれない。フロムの主張の方がよっぽど現実を見ていると思う。
もちろん、そういう激情的な側面があることも否定はしないけれど、それは恋愛ではなくて、恋なんじゃないだろうか。
愛に至る前の、一方的な気持ちの押し付けあいがそれなんじゃなかろうか。
私は、愛とは意志であることに納得している。理性的にひとつになりたい相手。
「自分の人生を相手の人生に賭ける」
いい言葉だと思う。その決意がないと、結婚はすべきではない。
そして次は親子の愛の話。
長くなるので引用は避け、要約する。
まさしく自分がそれ、という人も少なからずいるのだろう。
私は「まさしく」ではない。しかし私の人生も母の賞賛を得られるかどうかが大きな比重を占めていた。
単身赴任がちな父との記憶は薄く、すべては母中心に回っていた。
母にがっかりされたり、叱られたときのことは忘れられない。
大学生の時は「母は私のことを汚いと思っているのかもしれない」と感じ、目線を合わせず、表面的な会話しかできずにいたこともあったように思う。
母が不在の今、私は母の代わりをパートナーに求めている、とは思いたくない。でも「思いたくない」と言っている時点で、ある程度認めているようなものだ。
私のことを認めてくれる存在、その人がいなければ私が成り立たない、と依存してしまっているのは、自己愛が足りないからだろう。
親から子供への愛の注ぎ方は、その子供自身の「愛」のあり方に大きく影響する。無償の愛をくれるのは親だけであり、子供としては当然、その愛の渡され方、渡し方しか知らないままに大人になる。
大人になったときに自己を愛することができているかどうかは、親次第のところが大きいだろう。自分も親になる際は、肝に銘じておかなければならない。
愛するということは、技術であり、訓練するものであるというのがフロムの主張。
本能的にできると思い込んでなんにも練習をしないで、「愛しかたがわからない」という人に対して「当たり前だ、愛は技術なのだから。」そう言っている。
長いのでここからも要約がちになる。
人を愛するためには、修行とも言えるこれらの「規律」「集中」「忍耐」が必要となる。
「規律」が指し示したいことが、私にはいまいち掴めなかった。
どんな時代もきっと「規則は破るもの」みたいな風潮はあるものの、規律ってそもそも自分が自分に課すものですよと。多少ウッとはなるけど、自分が自分の意思で続けて、いいことだと思えることが大事なんですよ、と、そんなことを言っているのだろうか。
だとしたら私の場合、「ジムに行く」はウッとなるけど、自分の健康のためにイヤイヤ行って、満足して帰ってこれるから・・これすなわち「規律」を守れていることになるだろうか?ふむ、そうかもしれない。
「集中」は、当時の言葉にはなかったのかもしれないけどズバリ「瞑想」だろう。今に集中する、というのはどんな本でもよく聞く。何を極める際にも基本中の基本になるのかもしれない。
これは「愛する」ための修行だ。自分を感じ取れなければ、人を愛せない。ごもっともだ。自分という存在の核を信じられるから、「愛」を生み出すことができるのかもしれない。
・・「忍耐」が必要なところだが、大分頭がプスプスしてきた。
ここで使われている「ナルシシズム」は「自分を性的な対象として見る」の意としてではなく、「自己世界への陶酔」という意味が強いと思われる。書いてある通り、客観性と対比されているから。
私たちは主観的に、それまでの経験というフィルターを通して世界を認識している。そしてそのフィルターを通してみた景色こそ絶対の事実だと思い込んでしまうのが、陶酔しきった状態、ナルシシズムに溺れた状態。
ネガティブに歪んだ認識をするのは、うつ病患者にありがちな症状だ。
「どういうときに自分が客観的でないかについて敏感でなければならない。」
まさにその通りで、大体、何かこだわりが強い時に主観は色濃くなってしまうように思う。
私の場合、「人の気持ちは考えればわかる」と過信してしまうところとか。実際には全然違うのに、客観性がまるっきり排除されて、私は自己認識の中で苦しむことになる。
つまり、客観的に自分や他人を認識することが、「規律」「集中」「忍耐」よりも前段階、愛することの前提にあるということだ。
これは、私のパートナーにはできていることで、私にはできていないことだと思う。
私は、自分の芯なんて感じられているだろうか?
ようやく、自分が何者であるかの等身大の輪郭がぼやっと見えてきたのがここ数年のような気がする。芯たるものがあるかはわからない。
いつも透明でメタモンのようなアメーバ状の自分像が強かった。
だからだろうか。私はまさに、他人に褒められるかどうかに左右されているやわな存在の人間だ。
つくづく、パートナーとは対照的だなと思う。彼は、自分の芯を知っているのだろうか。
子供の潜在的可能性に対して信念を持っているかどうかが、「教育」と「洗脳」の違い。
ポスト母親(かなあ?)の私は、すごく重みのある言葉として受け取った。
この2つの言葉が対比されていることだけでも、脳の大事なところに置いておきたい。私が今子供にしているのは「教育」か、「洗脳」か。その問いを忘れないことが重要そうに思う。
以上、長くなってしまったが、「愛するということ」の備忘録。
またいつか本を読み直せば、それはそれで新しい発見があるように思う。
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