立 ち 上 が れ 滉 燿 くん ! ~明日を信じた5年間~ 1(2) 「君の力を貸して欲しい」 異例な異動 無理な勤務 うつ病の発症
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1 飯塚市立八木山小学校へ
平成16年3月25日の朝、1月下旬から病気(過労によるストレス反応)で休んでいた私は勤めていた飯塚市立八木山小学校に行きました。
私は平成12年に八木山小学校に来ました。前年の平成11年は福岡県派遣研修員として「学力と自己効力感を向上させる」の研究をしていた福岡教育大学の大学院を卒業して飯塚東小学校に赴任しました。そして平成12年には八木山小学校です。一年で続いて転勤するのは異例な人事でした。
「八木山小学校は子どもが少なくなってしまった。このままでは廃校になってしまう。それを防ぐために、平成13年から、飯塚市に住む子ども達はどこからでも通える自由校区にすることになった。自分も校長として行く。今年からできたパソコン教室(平成11年に設置)や研究が強い辻塚先生にどうしても来て欲しい。子ども達がたくさん集まる魅力的な学校にして欲しい」
教育委員会の森田和正 学校教育課課長補佐(当時)からの強い依頼です。
当時の八木山小学校は児童数24人、職員数が10人の小さな学校でした。そんな学校ならのんびりと思われますが、学校が小さくてもする事は大きな学校と同じです。それを4人の担任でしないといけません。
例えば、ひと学年4クラスの学校では24人でやる仕事を4人だけでします。当然、学校の係を一人でいくつも持つことになります。
私は5・6年の複式学級担任でした。2学年分の勉強と学級事務と運動会以外の全ての行事をしなくてはいけません。忙しい時は連日夜12時くらいまで残って仕事をしました。普通の学校では、一年間の事務でフロッピーデイスク1~2枚使用でしたが、八木山小学校時代には毎年15~6枚位使っていました(当時ではフロッピーデイスクでした)。
最初の職員会が終わるとパソコン室に行きました。てんとう虫の死骸が壁際にたくさんありました。片付けるのが最初の仕事でした。これから次々に仕事が出てきます。修学旅行ための旅行社への連絡・打ち合わせ、野鳥観察会への野鳥の会への講師依頼、入学式の提案・準備を始めます。児童会担当なので集会の企画、学級事務、授業の準備・・・、出張しての生徒指導研修会、見た事もない行事もあります。仕事は、いつまでも終わりません。
6月には教育委員会から各学校のHPを作るように命じられました。市内の学校のほとんどの先生は作り方が分かりません(私も)。それではまずいと担当者への作り方の研修会はありました。
HP作りは一日の学校が終わってからの仕事でした。近くの食堂で1人で夕食をとって学校へ戻ります。夜中、1人で、学校の職員室のパソコンで作ります。フィルムカメラで撮った写真をスキャナーを取り込んでいきます。「ジー、スル・スル・スル」スキャンする音が、足元に置いたスキャナーから流れて静かな職員室に響きます。なかなか終わりません。窓から外を見ると山の中の学校は周囲も真っ暗。作動スピードの遅さにイライラします。時計を見ながら「いつ頃終わるかな?」。23時ぐらいまで作業をやって、一週間ほど掛かって市内の学校の中で最初にアップする事が出来ました。
そんな中、八木山小が属する中学校区の3つの小学校の学力実態調査がありました。4月のテストでは全体の平均点が89点でしたが、算数が5年生36点、6年生45点のビリでした。5年生の3人の女の子達は泣いていました。
「良いよ。泣くな。テストはあと何回かある。最後のテストで一番になろう!」
「そんな事出来るんですかぁ?」
生徒は疑っていましたが私には秘策がありました。自作のドリル「算数マスター」を宿題に使いました。復習ために、3年生レベルから始めました。
思った通りに、6月のテストでは65点、10月では85点と平均点は上がっていきました。最後の12月では、1人が一問計算ミスをしましたが、他は全員100点でした。他の学校の平均点は、ほとんど向上していませんでした。
学校外の仕事もいくつかあって、福岡教育大学での学生の勉強会(今で言う学生インターンシップ)の指導なども頼まれていました(週に1回金曜日夜)。飯塚市の依頼で発明クラブや生涯学習課の天体観測会の指導員もやっていました。
長男が8月に生まれましたが(結婚して6年目)、約千グラムという超未熟児で大学病院で生まれて11月まで入院しました。毎週の見舞いと退院後は子育てが始まりました。
休む暇がありません。「疲れる」と病院で訴えると、漢方薬の「元気が出る薬」を病院から出して貰って仕事を続けました。
時々、校長から呼ばれての「これを頼む」「他の者より君に頼みたい」「1回言ってもわからんやつは、何回言っても分からんからな。頼む」の『たいした事の無い』用事もチョコチョコありました。
1学期終了式に続いてスクールキャンプ。その名前のように運動場にテントを張ります(笑)。
9月に2学期が始まるとT君の不登校が始まりました。彼は2年生から登校渋りが始まり5年生の3学期は一度も学校には来ませんでした。そう聞いていましたが、私が担任の6年生になってからは、なぜか、週2か3日ぐらい学校に来るようになっていました。
9月3日、私は最初の家庭訪問に行きました。会えないだろうとメッセージメモを持って行きました。
明日の時間割の下に、
『体調はどうですか?今はゆっくり休んでください』
「不登校生に”ゆっくり休め”って逆じゃないか!?」 ですって?
私は福岡教育大学で心理相談室で、不登校のカウンセリングをしていました。カウンセリング療法では共感的理解を重視します。それが治療の始まりです。T君は学校を休むと言う選択をしています。それなら、「学校を休む」を選択したT君の気持ちに支持・共感しないと始まりません。
私は毎日、学校が終わると家庭訪問をしました。話しながら、彼の心の状態を見ながら、次にどうするか「処方箋」を考えました。「学校へ来なさい」の言葉は使いません。君自身で「学校へ行こう」と思う様に導く方法が大切です。大学院時代で勉強したカウンセリング技法を全力で使ったのです。一緒に遊ぶこともありました(庭でゴルフの打ちっ放し)。それが功を奏して10月中旬から学校へ復帰してくれました。一度も「学校へ来なさい」言わないで、再登校したのです。カウンセリング療法の理論通りでした。しかし、校長からは「秋になって凉しくなったから来たんだろうなァ」と明るく言われただけでした。その間の運動会、公開授業(研究授業)、5年生の見学旅行、相撲大会(!?)・・・。へとへとでした。
「5・6年は学校機関車だ!」
森田校長の言葉です。その通りですが、指導するのに前の学年がしていた事が分からないので、聞いたり・自分で考えないといけません。高学年には慣れている私ですが、初めての学校では負担が大きかったのでしょう。学生時代に空手道をやって、元気だった身体に異変を感じるようになりました。朝早く目が覚める事が多くなって、直ぐに疲れるようになりました。仕事が続くのに耐えられなっていたのです。「じっと」しているのが嫌いな私なのに、『もう・・・、ナニもしたくない』。
3学期は冬の野鳥観察会、卒業記念作り(木製のトトロの看板作り)、卒業式です。卒業式が終わると卒業学級担任は「やれやれ」です。後は、年度末で忙しい職員を見ながら「のんびり」なのですが、複式学級では6年生が卒業していっても5年生は残っています。これが、結構キツかったです。
ところが、平成13年度は、頼りにしていた森田校長が飯塚市教育委員会に課長で戻り、後任の校長は飯塚市外から来ました。新しい年度は、正式にフリー校区が始まるのに、飯塚市に慣れていない校長とは・・・、
『自分を異例の1年で異動でわざわざ連れてきたのに、これからって時にナニ考えているのか!今まで15年間飯塚市の学校にいるが、市外からの管理職の転入は1回だけだ!なかなか無い例なのに・・・、それが今かね!?他の学校へ回して、八木山小には市内にいた校長を入れろ!』
落胆したのか、疲れが我慢が出来なくなったのか、身体の疲れが取れなくなって、5月には、もう動け無くなりました。健康診断の血液検査は異常を示す赤色の数字がたくさんありました。中でも中性脂肪が407と異常な数値を出していました。診断名は「過労によるストレス反応」でした。
今、考えると、元気が出る薬を飲みながら仕事を続けたのは、痛めた部分に痛み止めの注射を打ってスポーツをするようなものです。身体に酷い事をしてしまったのでしょう。
平成13年に約半年間の病気休暇を取った以降は、少し弱った体で病院で出される薬を飲みながら仕事を続けていました。土・日はどこにも行けずに一日中寝ている事が多くなりました。そうしないと月曜~金(土)曜までの勤務が出来ませんでした。キツい!子どもは可愛い盛りなのに・・・遊んでやれませんでした。
翌年の平成14年には、今度は教頭が市外からの転入も負担になりました。
言葉使いが荒い評判の悪い人でした。
さらに、平成15年の人事異動では新しい校長と教務主任が、またもや市外からの転任です!?同時に、私以外の担任の3人の先生が転出・入になりました。1人は昨年転入してきたのに1年で転出!これも普通無いでしょう!4人教諭で前から居るのは私だけ!新しく転入の3人の先生は八木山小学校独特の行事はわからないと校長・教頭の強い要望で、体が少し弱っていた私にいくつもの係を受け持たされました(ホントかよ!)。技術員や司書の先生も替わりました。気心が分かっている人が居ない中、私が言った「笑い話」を別の意味で取られたり、私は孤独を深めていきました。
平成15年4月、つらい忙しい日々の始まりでした。3月末に次男が生まれていたのですが忙しくて嬉しさが感じられませんでした。忙しさのせいか、たびたびミスをするようになりました。
「辻塚さん・・・、信用なくすよ!」
冷たい教頭の言葉に怒鳴り返えしました。
「信用とかいらない!信用があるからこれだけキツい目にあっているんだ!」
八木山小学校のフリー校区は市内の生徒が沢山来て欲しい。学校をよく知ってもらうようにと秋に学校開放日が日曜日に設定されていました。
水曜日に、学校開放日に見学者に見せる「出し物」を練習をしていました。その夜、異常なきつさを覚えた私は、ここで休まないとこじらすと思い、木曜日から開放日の日曜日まで休暇を取りました。代休日明けの火曜日に、校長室に呼ばれて教頭・校長から激しく叱責されました。
「行事があるときは這っても学校に来い!」
飯塚市の学校の行事は人の命より大切なようです。
私には、もうやる気が有りませんでした。
教育心理学修士で「やる気の研究をしていた先生のやる気が無くなる」という皮肉な事が起こっていたのです。
年内は堪えていた身体の不調でしたが・・・。年明けて平成16年1月、3学期が始まった頃は『凄く調子が良いな』と思っていると突然、ガクッときました。下旬から動けなくなりました。今から考えると後年、苦しめられた双極性障害の始まりだったかもしれません。こうして3学期末まで病気休暇を取って休んでしまったのです。
春休みになってようやく学校へ出てきた私を見て、校長先生が声をかけてきました。
「辻塚先生、ちょっと校長室へ」
二人は校長室の応接セットのソファーに向かい合って座りました。
「体の調子はどうかね?」
「まだ、万全ではありませんが、仕事は出来ると思います」
「そうかね。実は辻塚先生に伊岐須小学校への異動の辞令が来ている」
「伊岐須小学校ですか。異動希望の第一希望だったので嬉しいですね」
「体だけには気をつけてな」
飯塚市で一番小さな学校から一番大きな学校への異動です。職員室に戻ってパソコンを使っていると職員室の電話が鳴りました。電話に出ると、
「辻塚先生?」
伊岐須小学校の中田昭彦教頭先生でした。ちょっと遠慮がちの声で、
「先生、特別支援学級の『なかよし学級』で肢体不自由の子の担任をしてくれんやろか?」
私は大学では肢体不自由児教育専攻でした。嬉しい申し出です。返事はもちろん、
「はい、わかりました。やらせていただきます」
続編 立ち上がれ滉燿くん ! ~明日を信じた5年間~ 1(3) 伊岐須小学校へ
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