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コラム キャンプの思い出

 高校教師になって4年目の夏休みのことです。
 その夏、学校ではキャンプが流行っていて、生徒たちの強い希望で、ぼくたち5,6人の若手教師が、クラスや部活動のキャンプを一手に引き受ける羽目になって。
 ある教師が発案したのは、それぞれが違う場所でキャンプするのは、計画も実施も面倒だ、同じ場所へ行こう、しかも、公共の施設を借りることができれば省力化できるぞ、ということで、「なるほど、なるほど」と全員で納得。
「では、A島はどうだろう、定期船の便数も多いし、島の学校の前は広い砂浜が広がっておる。島には診療所もあるし、交渉次第では学校のトイレを使わせてもらえるかもしれない」ということで、これも一同異議なし。
 言い出しっぺのその教師が交渉した結果、すんなりOK。
 で、2泊3日か3泊4日で、1グループが終了する日に、次のグループがやってくるというふうに、夏休み入りからお盆前まで、A島連続キャンプが始まりました。
 部活やクラスの都合を調整して日程ができあがり、同時に引率者も決定しました。
 ぼくは8月に入って、3グループ10日間の担当となりました。

刺された!
 
 夕飯(キャンプ中は、カレーと豚汁の日替わりがほとんど)が終わって、凪いだ浜辺をみんなで散歩中のことでした。
 さわさわと浜に寄せる波が、気持ちがいい。
 足元に目をやると、見事な衣装を身にまとった4、5センチの美魚が泳いでいます。優雅に舞っている風情のその小魚をそっと両手ですくうと、なんなくゲット。
「みんな見てみ、きれいな魚だぞ」と、そこらの生徒たちに声をかけた時、チクッ。それほどの痛みではないが、かと言って、見逃せない痛みです。ぼくは魚を砂浜に投げました。
 そこへちょうど通り合わせた、島のおじさんたち。ぼくの様子を見ていたようです。バタバタしている魚を指さし、「これは、ミノカサゴと言うて、毒が強いから、この後、痛みが出るぞ」とおっしゃいます。
 たしかに、刺されたあたりがドクドクしてきました。さらに、そのドクドクが左腕を這い上る気配です。ドクドクがドックドックとなり、腫れも出てきました。
「お医者さんに診てもらった方がいいよ」と、同僚教師が心配そうに言ってくれました。
「生憎じゃなあ。診療所の先生は、県庁に行くとかで、今日はおらんようじゃ」と気の毒そうにおじさんが言います。
 別のおじさんが、浜でぐったりしているミノカサゴをあらためて見て、「明け方までは、痛むぞ」とおっしゃって去って行きました。
 痛みと腫れが「ドックンドックン」と、腕を這い上がってくるのが判ります。やがて、腫れた手首が紫色に変わり、これも這い上がっていきます。
 痛みのドックンドックンは、心臓の打つ音とシンクロしています。やがて、紫の腫れは肩口まで上ってきました。さっき服用した鎮痛剤は効いているのか。目を閉じると、ぼくの手のひらで舞うミノカサゴの姿が浮かびます。
 気がつくと、どこかへ出かけていた同僚教師が目の前にいます。
「町の病院に運ぶために、船を出してもらおうと頼みに行ったら、あの程度のミノカサゴなら命の心配はないじゃろう、ということで……」と、申し訳なさそうに言います。
 ぼくは考えました。「お医者さんより、おじさんの判断が正しい」「だから、ぼくは死ぬことはない」
 まんじりともせず、というのはこんな一夜に使うのだな、なんて考えながら、ぼくはひたすら朝が来るのを待ちました。そのうちに、うとうとして、目が覚めるごとに、襲いかかる痛みの程度が和らぐような気がして。そして、また、うとうとして目を覚ます、を繰り返し、気がつくとテントの隙間から朝の光が射し込んでいました。
 尿意を感じて、ぼくはテントを出ました。生徒たちは浜で車座になり朝食をとっています。ぼくの姿を見ると、一斉に立ち上がって拍手をしてくれました。
 ぼくの目から、次から次にと涙がこぼれ落ちてきました。

真っ黒、黒で。

 ミノカサゴに襲われた後も、ぼくは残された引率の日数の責任は果たしました。
 島を離れるとき、新たにやって来た教師と生徒には「きれいな魚には絶対触れてはいかん」と伝えることは忘れませんでした。
 で、島から帰って数日後、校長から呼ばれました。
「急なことですまないが、東京の研修に行ってくれませんか。いや、参加を予定していた○○先生が急に体調をくずしてね」
 研修の内容を見ると、なかなかに面白そうです。開会は4日後です。
「……いいです」と答えるのを待っていたかのように、校長は、机から封筒を取り出すと、「○○先生が予約した、東京への往復乗車券と宿泊費、日当です」と差し出しました。「ただねえ、○○先生は東京に弟さんがいて、そちらに泊まる予定だったようで、ホテルを予約していなかった、というのです」と、気の毒そうにぼくを見やります。
 ぼくらが出張で利用する宿は、いわゆる普通のレベルのビジネスホテルです。今から探し出すことができるか。その心配を口にすると、校長は「私が旅行社に電話を入れてみましょう」ということに。
 数回の電話のやりとりがあって、「ビジネスホテルはどこもふさがっているようですが、上野の旅館がとれたそうです。上野駅の近くで、交通は便利なようで……」と、書き写したばかりのメモをぼくに手渡しました。
 2日後の午後5時過ぎ、大分駅から寝台特急に乗車。東京駅に着いたのは翌日の正午前でした。とりあえず、上野駅へ。そして、宿へ。古い旅館でした。
 夕食前に、風呂に。湯船に、中、老年のおじさんが3人浸かっています。隅っこなら、ぼくも入れそうです。まず、掛け湯、そして湯船に、というとき、「兄ちゃんの体。エエ焼き具合やなあ」と、おじさんの1人がぼくに声をかけます。「どれどれ」「おう、なるほど」「これは、立派なもんじゃ」などと、ほかの2人が応じます。「兄ちゃん、ハワイにでも行っとったんか」
 当時、ハワイに行くなんて、フツーの国民には夢のような出来事です。「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」というコマーシャルがテレビで流れていました。
「いや、いや、いや……」と、ぼくがそろりと湯に身を沈めた時、ガバ、ガバ、ガバと,3人のおじさんが一斉に立ち上がりました。
 おじさんたちは立って、洗い場の椅子に。見ずとも、3人の背中が目に入ります。
 おお!
 そこには、総身の、彫り物が、展覧会の作品のように並んでいます。
 左から、龍に、観音様に、閻魔さま、か。細密で、カラフルな描写が腿にまで続いています。ガバッと湯をかけるたびに姿態や表情が変わり、こちらに迫ってくる感じです。高倉健や片岡千恵蔵など、映画ではお馴染みですが、生きた(変?)入れ墨は初めて。風呂の中ですが、じっとり汗が滲んでくる感じです。
「これって、いくらぐらいのお金がかかるのだろう?」なんて、貧乏性のぼくは、つい考えてしまいます。
 その時、閻魔さまのおじさんが振り返って、ぼくを見て言いました。「兄ちゃん、おれらの背中より、兄ちゃんの背中の方がピカピカやで。若くて、汚れがない。おれらも、若いころは、そうじゃった」
「どうじゃ、飯食ったら、わし等の部屋に来いや。一緒に、飲もうやないか」と、観音様も振り返ります。
「ありがとうございます。いえ、あの、まあ、明日が早いので……」などと答えたところまでは覚えていますが、実は、その後、どうやって浴室を出たかなどの記憶があまりありません。
 3人のおじさんたちがいないことを確かめ、食堂で夕食をすませた後、早めに布団に潜り込んだのは覚えています。

 60年前の、夏の出来事です。
 東京から帰ったあと、ぼくの背中は、あちこちで皮がはがれ始めました

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