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小説:狐013「臨時休業」(982文字)

 月曜日、『狐』へと続く階段を降りようとしたところ、スミさんが肩を落として戻ってくる。
「おう、ナリさん。臨休だ。別んとこ行こか」

 毎週火曜日と第五水曜日が定休日。それ以外にも休業することが年に数回程度ある。マスターだって人だ。休みたい日もあるのだろう。
 とは言え、ほぼ毎晩独りカウンターに立つ彼は鉄人級で、誰もが敬服している。

 スミさんの言うままにやって来たのは、大衆的な居酒屋チェーン店『つぼ民』だった。
「ナリさん、来たことあるか?」との問いかけに、無いと答えた。私は決してお酒が好きなわけではなく、また強くもないのだ。ましてやガヤガヤとしたこの手の雰囲気を望まない。だからこその『狐』であり、だからこその“球体の氷を浮かべたビール”なのである。

 思えばこんな風に二人だけで飲むシチュエーションはさほど多くない。仮に『狐』にて客が私とスミさんだけというケースでもマスターがいるので実質三人となる。もちろんマスターが口を挟むことは皆無だが、聞いてくれている。見てくれている。

「で、ナリさんって何して暮らしてんだ?」
 至って普通の会社員をしている、誰にでもできることだというようなことを述べた。
「へぇー、でもスゲーな。おいらは会社勤めそのものが向いてないんだ」とお猪口を離さないスミさん。
 不動産業を営んでいる、というのは以前聞いたことがあるがそこに至る経緯や背景までは知らない。

「“染村(しむら)まさし”、分かるだろ。あの人みたいな喜劇俳優になりたくてな、高校卒業と同時にこっちへ来た。んで劇団『巣くらっぷ』の門を叩いた。もちろん劇団員では喰っていけねぇから、バイトを3つ掛け持ちしてな。交通量調査員、キャバクラのボーイ、ラーメン屋の厨房……」

 若い頃はモテて、“女を切らしたことがなかった”話。
 21歳で子供を授かり結婚するも、2年後に離婚した話。
 やがて喜劇俳優の夢に終止符を打つことになる。知人の伝手で不動産に明るい人と知り合い、ゼロからノウハウを学んだ話。
「叶わぬ夢を追って上京してな。馬鹿みたいだろ。よくあるおじさんの話だ。付き合ってくれてわりぃな」
 そう言ってにこやかな表情を呈する。『狐』では見たことがない。

 その日のスミさんはいつも以上に饒舌だった。実は彼は夢を叶えているのかもしれない。少なくとも私にとっては一番身近な染村まさしなのだから。

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