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小説:狐029「何かであって何かでないもの」(1394文字)

「20年前の話、していいですか」
 語りたいことを語る。それを決意した。

「小4の遠足でした。『せせらぎヶ原美術の森公園』って所に行ったんです。
 そこはだだっ広い公園なんですが、その中心に美術館があるんです。みんなは芝生の上でフリスビーをしたり、野球のまねごとみたいなことをして遊んでいたんですが、私は運動が大の苦手なので、美術館に入ってみたんです。
 そこで、とんでもないものを目の当たりにしました」

 マニさんがすかさず言い放つ。
「せせらぎヶ原美術館と言えば『何かであって何かでないもの』が目玉ですよね。確か高さ7.5メートル。金属製の造形物」

「流石、その通りです。『何かであって何かでないもの』に出会ってしまったんです。私はその力に圧倒され完全に打ちのめされてしまいました。ああ、今でも思い浮かべるだけで目頭が熱くなります。

 その美しさ、いや、単なる美しさではないかもしれませんね。美しさと称する時点でもう、そこにそれは無いというようなものです。美から逃げる美、というか、美というコトバでは追いつかない何かです。おそろしさであり、深さであり、それでいてかっこよさでもあり、可愛らしさでもあるようなその立体造形に魅了されました。
 光沢のある金属の球体でありながら、それは少し溶けかかっていて、今にも液体になろうとしている。固体でありかつ流体っていうんですかね。それでもその形態を維持する力に満ちあふれていて、はかなくもたくましい。言葉で説明すればするほど、遠ざかっていく気がします。今度是非直接見て欲しいです。

 あんまり信じてもらえないのですが、その時私は気絶してしまいました。その作品が放つ力を受け止めきれなかったのかもしれませんね」

「気絶って! 相当効いたんだな。ナリさんって繊細なとこあるんだ」

「繊細かどうかは分からないです。まあ図画工作や美術は昔から好きで、校内コンクールには何度か入選していました。

 高校では美術部に入りました。よくサッカーボールとか、バスケットボールとか、野球のボールとか、ゲートボールとか、球体ばっかりデッサンしていました。また、トイレのあの形状が好きで、模型をいくつも作っていました。そんな高校三年間でした」

「いいねえ。ナリさんも十分変かもね」とエロウさんが微笑む。

「知らなかったなあ。そんな面があったのか」とスミさん。

「本格的に美術をやりたくてそっち方面の大学を受験しようとしたのですが、父に猛反対されました。

“男親一人でお前を育ててきた。芸術なんかやって食っていけるのか! そんなことのためには大学に行かせられない!”と。

 父は文化や芸術への理解がありませんでした。私を生かすのに必死だったのかもしれません。

 当時の私に力はなく、父の意見に従うしかありませんでした。今思えば、自分で学費を稼いだり、自分の思いのままに進む術はあったのかもしれませんが……

 しぶしぶ普通の大学に進みました。経済学部です。何の興味も持てませんでした」

「大学で美術系のサークルや活動をやったりしたのか」とスミさん。

「いえ、何もしませんでした。大学入学直後に父が他界して、学費を捻出するためにバイト漬けの日々でした。

 何のために大学に行くのかよく分からなくなって、中退しようかとも思ったのですが、父の思いに報いるためにも卒業だけはしようと決めました。取得単位はギリギリでしたけどね」


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