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浪人した話

こんにちは。
今は1年、4月からは2年の大学生です。
なんとなく自分が浪人したときの話を残しておこうと思ったのと、
誰かの浪人生活の足しになればと思い、noteに書いておくことにしました。

長くなると思いますが、これから浪人する人は、
こんな感じなんだなー思って勉強の合間にでも読んでみてください。
(変わっててちょっと面白いと思いますよ)

まず、現役の受験の時の話から

私は高校1年の夏休みにオーストラリアに留学をしに行きました。
私は学業をまともにやっておらず、評定もダンゴムシの抜け殻みたいなのもだったのですが、その留学の経験が筑波大の学校推薦型の入試(普通は評定が高い人(確か4.2以上)が出願するものです)の出願条件に当てはまっていたので、出願することにしました。
筑波なのに倍率は1.4倍くらいととても低かったです。
さらに、コロナが1年の終わりから始まったため、
留学に行けている生徒が少ないわけです。
「あ、自分めっちゃ貴重な人材じゃん」と思って完全に舐めていました。

結果は「不合格」

かなりショックでした。
この結果が出たのが12月の頭でした。
推薦で受かるとだろうと舐めて共テや二次の勉強をしていなかったため、
12月から勉強しても間に合うはずがなく、もちろん一般もダメ。
(親が浪人OKをしていたので、筑波しか受けませんでした)

そして駿台での浪人が決まりました。
現役の時まともに勉強していませんでしたので、
みんなよりも一歩後ろからのスタートですね。

駿台に入るとまずクラス分けテストがあります。
そこで上のクラスに入れば、いわゆる駿台名物講師に習えるわけですけども、別に上位クラスじゃなくても名物講師に習うことは全然できますよ。

まー、上のクラスに入ろうと思って浪人が決まってからは勉強をしていました。
そして私は真ん中のクラスに割り振られました。
全然勉強してなかったこの私が真ん中のクラスに入れたのは
クラス分けテストが英数の二科目だったからです。
この二科目は比較的得意でした。
苦手な理科があったら間違いなく私は一番下のクラスに割り振られていたことでしょう。

そして駿台での生活が始まりました。
授業はとても面白かったし、ICTを用いた勉強は初めてだったのでとても楽しかったです。割と頑張りました。atama+というAI学習ツール(駿台は一人一台iPad(制限が厳しくYouTubeとかは見れないよ)が配布され、それに色々学習ツールが入っています)があるのですが、一時期クラスで一番進んでいるとクラス担任から言われたくらいです。

クラス担任?何それ?という感じかもしれないですね。
クラス担任は生徒の学習状況を管理したり、受験の情報をくれたり、勉強の相談にも乗ってくれるとても頼もしい存在です。(バイトじゃないよ)
授業はしませんよ。講師じゃないので。
だから「○○先生」ではなく「○○さん」と大抵の生徒は呼びます。
真ん中のクラスのクラス担任はkさんという方でした。
kさんは私の浪人生活に深く関わってきます。

そんなこんなで初めての模試。

筑波E判定。

まーそうでしょうね。

勉強の成果は一週間、二週間では出ませんから。

前期に4回くらい模試があったと思いますが、全部筑波はE判定でした。

でも苦手な物化の成績が伸びているのは感じていました。
始めの方は4割くらいでしたが、前期の最後には7割位取れるようになり、
クラス担任のkさんも一緒に喜んでくれたのをよく覚えています。
ちゃんと見てくれてるんだなーって嬉しかったです。


そのままめげずに勉強を続けました。
後期で上のクラスに行くんだと頑張りました。
(駿台は前期と後期でクラスが変わります)

そして前期が終了しました。
夏期講習に入り、いわゆる名物講師がやっている講座を取り、
勉強に励みました。とても楽しかったです。予習を復習もしっかりやりました。自分が成長しているのが感じられ、とても楽しかったです。

そんな中、河合塾で浪人している友達とご飯に行く約束があったのですが、その時東京のコロナ感染者数が1万人を超えたため、念のためやめておこうと、なしになりました。
一人で駿台に籠り、誰とも話さず勉強をしていたので、久しぶりに友達とお喋りができる!と楽しみにしていたんですけどね。

だからkさんと話すことにしました。
夏期講習が始まってから一か月、誰とも話してないから、人と喋りたい!とkさんに伝えたら快くOKしてくれて、1時間くらい談笑をしました。もちろん進路の話もしましたし、勉強の調子だったり、夏期講習どんな感じか、なんて話もしました。

そうしてあっという間に夏期講習が終わりました。

そして後期のクラス発表。

一つクラスが落ちました。

とてもショックで何も考えられなくなりました。

(後期のクラスは前期の模試の結果で決まります。前期の模試筑波E判定の私がクラス上がるはずないんですけどね、、、)

クラスが下がればクラス担任も変わるし、テキストも一つ下のレベルのものになります。もっと頑張らないといけない自分が、、、、と崩れ落ちました。受験生は「落ちる」という言葉に敏感ですからね。ショックを受けるのも仕方のないことです。
すぐにkさんのところに行き、クラスを戻してくれと頼み込みました。
それは私にはできない、と言われ、もう終わったと思いました。
「頑張ったけどクラス落ちた」が、いつか「頑張ったけど受験落ちた」
になるのが、怖くて怖くて仕方なかったのです。
前期の頑張りを認めてほしかったんです。

その後、クラスが落ちたことや勉強のストレスが原因となり、今まで19年間生きてきたストレスの全てが堰を切ったように爆発し、過呼吸になってぶっ倒れ、医務室を利用しました。

その次の日、kさんに会い、「昨日医務室使ったみたいだけど、大丈夫?」と心配して声をかけてくれたのをよく覚えています。

そうだ、クラスは落ちちゃったけどkさんはちゃんと応援してくれてるんだ、と少しやる気になりました。


一つレベルの下がったテキストの予習をしていたら、これは自分には簡単すぎると感じました。
だから、たまたま教務窓口にいたkさんに、元のクラスのテキストを買わせてくれと頼んだら、すぐOKしてくれました。すごくサポートしてくれて、とても嬉しかったし、もっと頑張ろうと思えました。
(後々知ったのですが、他クラスのテキストを買うことは禁止されていることだったらしいです。kさんはそれを知っていながら私にテキストを買わせてくれました)

しかし、クラスが落ちたストレスは大きく、何度も過呼吸になり、倒れてしまいました。kさんもそれに気が付いてくれて、「大丈夫?」と声をかけてくれていました。

もう無理。

そう思い、一緒に駿台で浪人していた友達に思っていることのすべてを打ち明けました。そしたら、その友達がkさんにそのことを話し、kさんと面談をすることになりました。本来は今いるクラスの担任が面談をするべきなんですけどね、kさんがしてくれました。9月のはじめくらいでした。

そこでkさんの紹介で、駿台の中にあるカウンセリングを受けることになりました。普通カウンセリングって1時間1万円くらいするんですけどね、駿台生は無料です。

週1回1時間カウンセリングを受け始めました。
それで少しは落ち着きました。

でも、やはり自分ではどうしようもないストレスはほんとにどうしようもなく、過呼吸は収まりませんでした。それどころかストレスからくる熱が出るようになり、思うように勉強が進みませんでした。
(ストレスってたまりすぎると普通に38度を超える熱が出るので、気を付けてくださいね。ちなみに2,3時間するとすぐ下がります)

そこでクラス担任に校舎を変更したいと伝えました。
もう環境を変えないと勉強もろくにできないし、何よりこのままでは受からないと思ったからです。
地元の校舎に変更して、気持ちを切り替えて勉強をしたいと思ったのです。クラス担任と校舎長はOKしてくれました。普通校舎変更はよほど特別な理由がないとできないんですけどね。私の現状を知っていた二人はOKしてくれました。
kさんには校舎変更の話はしていなかったのですが、どこかでその話を聞いたようで、ちょっと話そうと言われました。

kさんは反対しました。
そんなことをしても意味がない、ときっぱり。
目をしっかり見てそんなことを言われたもんですから、そうですか。わかりました。と口から洩れていました。
もういい。この人を信じる。この人だけを信じて頑張る。
そう思いました。

その後校舎を変更することなく勉強を続けていましたが、
ストレスは大きく、幻聴に悩まされるようになりました。
(後々わかるのですが、統合失調症の症状の一種でした)
過呼吸も再発し、kさんと相談し、精神科に通うことにしました。
病院はカウンセラーさんに紹介してもらいました。
行くと決めた日に予約が取れたのは幸運でした。
そして薬を処方してもらい、何とか勉強をできるくらいに復活しました。
ちなみに精神科に通い始めたことは親には言ってなかったです。休みなさい、とか、大丈夫なの?と、しつこく聞かれることはわかっていましたからね。

その後も色々ありながら、
あっという間に月日は流れ、共通テスト直前。
緊張や焦りで全く勉強はできなかったですね。
10月くらいの模試で、筑波C判定が出たので、
12月の最後の模試の志望校欄に滑り止めの私立をMARCH以上しか書かなかったんですよ。
今の自分ならMARCH余裕でしょ?みたいな感じです。
東大志望かよ!って感じですよね。アハハ
そしてら見事に撃沈しまして、その焦りもあったんですよ。
筑波はE判定でした。

もう共テ失敗したら、死んでやろうくらいには思ってました。
なんか死にたかったんですよ、苦しすぎて。今自分がこんな幻聴に悩まされたり、どうしようもないストレスに押しつぶされそうになったりするのは、全部私を教育した者のせいだって思って、自分が死んで、その人たちを否定してやりかたったんです。お前らのせいで人が死ぬんだぞって。
なんかそんなことをずっと考えてました。
そんなことを考えていたからカウンセラーさん、kさん、クラス担任に迷惑を掛けましたね。謝っても許されないようなひどいことを言ってました。

そして共テ本番。

結果はうまくいったとも失敗したとも言えない点数でした。
(7割くらい)
まー頑張った方ですよ。
現役の時は5割くらいでしたから。
200点近く伸ばしました。

筑波受けられない点数ではなかったです。
確かリサーチはE判定でしたが、私が目指していた学科は二次が二科目、英数でした。(比重も二次の方が大きかったような気がします)
この二科目は得意科目です。しかも共テ数llBは自己採9割でしたから。
数学は記述式の方が得意でしたし、自信があったんです。

さらに幸運なことに第二志望の学芸大が前期も後期もリサーチB判定でしたから、前期筑波突っ込むのは全然ありでした。

めっちゃ悩みました。

クラス担任、kさんと相談しました。
「君の判断だよ」と。
確かに、相談しても決断するのは自分ですからね。

さて、どうしたものかと。

この一年間筑波を目指してきたし、受けずに終わるのは嫌だ。
でもE判定だし、落ちる人の方が多い。

、、、、、

もうやめよう。

今の自分には無理だ。

体も心もボロボロだし、最近は幻聴もひどい、まともに勉強できてない。

「筑波受けるべきではない」

そう思い、断念することにしました。
(この時くらいに軽度でしたけど統合失調症の診断がつきましたし。それもあっての判断です)


そして僕は第二志望である学芸大に出願しました。

後悔はしていません。
正しい判断だったと思います。

多分筑波受けていたら落ちていたと思います。
そのショックで学芸後期も落ちていたと思います。

そんなこんなで、学芸大には無事合格し、今は学芸大生なわけですが、筑波への未練がないと言えば嘘になります。
筑波行きたかったなーという気持ちと、筑波受けたかったなーという気持ちが今でもあります。
やはり二年間も片思いしていましたから、ダメとわかっていても告白くらいしたいじゃないですか。

(ちなみに、kさんは二次試験直前に異動となり、
直接合格の報告はできませんでした。
手紙は書きましたが、届いているんでしょうかね、、、
今の自分が学芸大にいるのも、生きているのもkさんのおかげみたいなところありますから、会って目を見て、ちゃんとお礼がしたいものです。
生きる力を借りましたから、生きているうちに返せたらいいですね。)

そして私の浪人生活は幕を閉じました。

振り返ってみるとかなり大変でした。
とても疲れました。
十分やったと思います。
いや、十分やりました。
限界は超えたと思います。
サイヤ人だったらスーパーサイヤ人2くらいにはなってます笑

kさんをはじめとする色んな人の支えがあって、
成功(なのかな?)したのだと思います。
感謝しかないです。
ここで言うのもおかしいですが、本当にありがとうございました。


と、私の浪人の生活を語ってきたのですが、5000字を超えていました笑
ここまで読んでくれた人、本当にありがとうございます。お疲れ様です。

気が向いたら、自分がどんな勉強をしていたのかや、予備校(主に駿台)との付き合い方、心掛けていたことなどを書こうと思います。

では次の記事でお会いしましょう!










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