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水の杜

水はどこからやってくるのか──

私は南の谷に生まれ育った。子どもの頃から川が好きで、「この川はどこから来るのだろう?」と思っていた。そこである日、上流に向かって歩いた。川は少しだけ細くなり、あるところで看板かんばんが立っていた。その板には「起点」と書いてあった。

「ここが川の始まりなのか」

だが、「起点」の看板の先にもずっと川は続いていた。変だな、と思ったが、その時は家に帰った。


やがて、成人してからまた川をさかのぼった。その時はホメロスの本を一冊、わきに抱えて歩いた。叙事詩「イーリアス」を七五調で訳した詩人の土井晩翠どいばんすいの名訳だった。ぶ厚い本だ。

川は途中から、支流がいくつか現れ、暗渠あんきょになったり、どこが本流だかわからなくなった。一時間ほど街道を歩くうち、大きな池に着いた。池の周りは雑木林であり、その池には由緒ゆいしょがあって、昔からめ池として大事にされていたという。大きな池だ。

だが、人口の池から川が流れ出しているわけではない。結局、この時も川の始まりはわからなかった。


昨夜は嵐だった。寝床ねどこで風がうなるのを聞きながら、夢のようにヴィジョンを見た。明日の朝には雨は上がり、風もむ。そうしたら朝早くにあの山に登ろう。そこでヴィジョンクエストをするのだ。あの山というのは、光のきれいな雑木林のあるところで、丘や山が連なっているところにあり、そこはおおよそ川の源流域だった。

日の出の頃に目が覚めて、家で朝食をとってから、私は出発した。地面がぬかるんでいるかもしれないので、ブーツをいた。リュックを背負い、歩く。

丘や山が集まる場所の手前で、ふもとの小さな神社にお参りした。おやしろとお地蔵様がある。人はいない。そうか、ここはこのあたり一帯の神域の入り口の一つなのだろうと思った。今では開発が進んだけれど、昔は山や丘は入りづらく、神聖な場所でもあった。雑木林や森が広がり、街道とのさかいに神様や仏様をおまつりして、境域(きょういき)を大切にしていたのだろうと考えた。

さて、お参りを終えて丘を登っていく。とはいえ、今は整備されて道もある。階段もある。それでもだんだん緑が濃くなっていき、細い尾根筋おねすじを歩き、山の上の目指す場所に着いた。そこが、光のきれいな雑木林だ。

実はその尾根を向こう側に下ると、ホメロスの本を抱えて歩いた時に見た池に出る。つまり、この山に降った水があの池にめられる。貯水するだけでなく、水が氾濫はんらんしないための工夫でもあったのだろうかと考える。

地面はふかふかした黒土で、昨日の雨が湿しめらせていた。そこは広葉樹林で落ち葉が散りかれ、木の実が多く落ちている。ところどころささの葉がしげり、枯れ枝が落ちていた。

朝の光を浴びながら、慎重しんちょうに歩き、ヴィジョンを求めた。深呼吸する。心が落ち着く。目をつむって黒土を踏んだ。

水はめぐる。水は高いところから低いところに流れるが、水だけで流れるわけではない。土があるから水が流れる。

この山の周りはかつて田んぼだった。いわゆる里山さとやまに近い(里山の考え方にくわしくないので、なにが里山なのかよくわかっていないのだが…)。私が育った南の谷も、昔は一帯が田んぼだったという。川に沿って、谷底の低い土地に田んぼが続いていたらしい。

水は田んぼがないと一気に流れて、山から平地に行ってしまう。または川を流れて行ってしまう。すると、台風や大雨の時には一気に増水する。山の深い土であれ、田んぼであれ、池であれ、水の溜まり場があることで、水の循環がやわらぐ。水が和やかにめぐる。

水はただ水だけで流れているのではなく、土があり、木々があり、草が生え、根がからみ合い、鳥がいて虫がいて、そのすべてがあって水はめぐる。降った雨はゆっくりめぐる。山裾やますその田んぼも川原に生い茂る低木も、桜の木や雑草もいっしょになって水をめぐらせている。

水はつながり、流れている。

そして、これは「あいだの領域」が大切ということでもあった。人ばかりが集まっている街や村と、人がほとんど入らない大自然のあいだにできる場所。さっきの境域きょういきや雑木林。

自然と人が手をつなぐ場所。お互いをおそれながら共存する世界。人の手が入り、自然がみずからを育むところ。その「あいだの領域」があるから、人は自然の恵みを手にすることができるし、自然もめぐりがよくなる。新しいバランスが作られる。

人間は自然にとってまったくの外部ではないし、自然とひとしいものでもない。人間は自然から少しはずれて、その代わりともに生きる道をいつも探している。そのおかげで「あいだの領域」が保たれる。

人と自然が接している、あいだの領域。そこをめぐるのが、水と吟遊詩人たちかもしれない。


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