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嘘の世界と、それを射抜く羽生結弦選手

この記事は、昨日出した「かに座の満月と星々の予報」に関連しているので、よろしければ、そちらを参考にしてみてください

ちょうど、今朝、猫の鳴き声で目を覚まし、ぼんやり朝日の入る部屋の気配を感じながら、どこからともなく、あぁ、羽生結弦さんのことを書こう、そう思った。別に、特別な意味もなにもなかった。ただ、そうしたくなったのだ。

そして、猫たちに食事を与え、ストーブに火をつけ、パソコンに向かった。そうして、とりあえず、羽生さんの近況だとか、過去の記事をもう一度見てから書こうと思って検索したら、なんと・・

こんな記事が、今朝(12月28日)早くに出ていたのを見つけた。「酷い妄想」という言葉が出ていたので、何があったのだろう、と、調べて見たら、インスタグラムとXに、それぞれ、彼の言葉が載っていた。

このツイートの『1件の返信』を読むとわかるけれど、「自分で書きました」と、羽生さん本人のコメントがある。彼が何を言っても、母親が言っている、と言う風にこれまでメディアなどに言われてきたらしい。インスタグラムのほうは、直筆である。

そのインスタグラムは、

『10代の頃から、嘘や妄想や、出会ったことすらない関係者さんの話で記事が出ますが、面白いですね。ありったけの体力と、精神と、技術と、自分を、スケートに込めてゆきます。』

そう、書かれている。12月27日かに座の満月の日にアップされているのは、さすがだ。

星の予報でも伝えてきたように、このところの星の大きなテーマの一つは、妄想や嘘。そして、権力に立ち向かう、意見を言う人が出てくる、とう星もずっと続いている。羽生さんは、なんといつもタイムリーな人なのだろう、と思った。

報道機関のメディアは、社会的権力者でもあり、膨大な影響力を持つ。

一個人がメディアに追いつめられることもあれば、政治権力によって事実が曲げられたニュースが、繰り返し流されることで社会の流れが変わることも、よくある。国民が、事実を知らされないまま酷い状況に追い込まれることもある。

今回のパレスチナの件や、地球温暖化の件も同様である。温暖化のことは、日本ではほとんど事実が知らされていないが、直接的に命や暮らしに関係しているため、危機感を感じている。地球レベルで変化が起こっている中、日本の人たちが英語ができないのも、大きな問題だ。理解できる情報量が他国の人たちに比べ、圧倒的に低い。

イスラエルとパレスチナの問題をニュースで見ていても(アメリカ)イスラエル人は、流暢な英語を話すのに対し、パレスチナ人は英語が話せない人が圧倒的に多い。そういう事情も、外国語に鈍感だと気づけない人も多いようだが、これは、イスラエルとパレスチナの問題を如実に表している。

そんな中、日本語だけだどなかなかまともな情報が流れてこない上に、膨大な操作された、あるいは稚拙な情報が流れてくるため、受け取り側は大変である。2024年は、現実と嘘や妄想とを見分ける戦いの年にもなるだろう。

そんなこんなで、正確で信頼できる情報を得ることは、これからますます大切になると考えるが、羽生結弦さんのメディアの「妄想」「嘘」の件と、昨日出した『かに座の満月と星々の予報』の《詐欺の星と、目覚めの星》の内容とは完全に重なる。

羽生さんは、ご自身の手でメディアの介入がひどすぎたことが離婚の大きな原因である、と書いている。(下に添付のX)


その一方で、羽生さんが隠していた結婚のお相手の情報を暴いた新聞記者は、下に添付のYahooニュース記事で、以下のように述べている。


「『絶対にモノにしてやろう』と思って取材していたわけではないんです。普通に取材をしていて、たまたま得た情報があって、複数の人に話を聞いて、真実であると判断できたので報道しました。」「特に(羽生さんの)ファンだったわけではありません。フィギュアスケートにも特に関心はありませんでした。なので、取材は基本的に1人で行い、私が光市担当の記者じゃなかったら、この記事(光市出身の末延麻裕子さんが結婚相手というスクープ)は書いていないと思いますよ」と偶然、末延さんの地元で情報をつかんだことを明らかにしました。

これは、わたしが昨日書いた、上にも記載している記事の内容と、ほぼ重なっているのにまずは自分で驚いたとともに、わたしがこれまで感じてきたことは、やはり間違っていなかったと確信もした。

記者は、取材している対象を熟知していない、あるいは、勉強していない、というところも、わたしが自然農の記者に対して感じたことと共通しており、そのことに責任を感じていない、というのも、予想した通りだった。

これらのメディアの人たちは、「普通に」取材して、悪気がなかったら、何をしてもよい、と思い込んでいるように感じられる。

わたしは自然農の専門家でもなんでもないが、報道されていることが、嘘あるいは間違いであると疑念を抱き、ちょっと調べてその疑念が当たっていたことが分かった。羽生選手は有名人のため、少しでも調べれば自然農よりもずっと多くの情報が早く調べられたはずだ。彼が、結婚相手のことを伏せていたことも、プライバシーを大切にしていたことも。

しかし、書いた記者は、フィギュアスケートに興味もなかったが、羽生さんの結婚相手が、たまたま自分が(記者として新聞会社の)担当エリアの出身であったから書いた、と、書いてあるが、あまりにも短絡的な理由である。

わたしはずっと、日本に戻ってきて違和感を感じてきた言葉がある。

「悪気がなかった」

悪気がなかったら、なにをしてもよいのか。そして、「普通に取材していた」というが、あなたの言う「普通」はなんだろう。

自分が書く記事が、書いた相手、および、社会にどのような影響を与えるか、そんなことも考えずに書く人は、ジャーナリストと言えるだろうか。なんでもかでも、事実を書けばよいというものだろうか。しかも、この記者は取材内容を「真実」と呼んでいるが、真実を書くのが新聞やメディアではない。事実を書く努力をするのがジャーナリズムである。

第一、羽生さんの結婚相手の名前や出生地や職業や年齢は「真実」とは程遠い、「事実」である。または、公人と呼ばれている、いわゆるセレブ、有名人、政治家、などの人々は、お尻の穴まで公に見せなくてはならないのだろうか。一般人の、食いものとして甘んじなくてはならないのだろうか。

公人だからこそ守りたいプライバシーというのもある。例えば、隣のおばさんが、実は、1か月前に足首を捻挫して腱が伸びきってしまい、歩くのも困難だ、と、聞いたらお見舞いに行くことはあっても、日本中が大騒ぎになることはない。しかし、オリンピック選手の足首の腱が伸びたら「選手生命はもう終わりか?」「日本の代表はどうなる?」「医者は何と言っている?」「手術は必要か、復活までにどのくらいかかる?」

選手本人が一番気にしていて、周りに言われたくないようなことを、国中を上げて言う。選手にとって、どれだけの精神的重圧がかかることか。

そういうことは考えないのだろうか。よしんば、一般市民が騒いだとしても、ジャーナリストは、『民というのは騒ぐものだ』という前提で、書いてよいことと書いてはならないことの線引きをし、書く場合はその書き方や言葉を考慮し選ぶのが、最低限のジャーナリストの基本姿勢である、と、わたしは認識している。そして何より、自分は、誰のために、なぜ、この記事を書き、公表するのか、という問いかけが最初に必要だと考える。

昔、わたしはイタリアで報道写真の勉強をしていて、そこで最優秀賞をとったことがある。その中で、戦争報道についても勉強したが、戦場でジャーナリストとして、メディアの人間として、やってよいこと、やってはならないこと、国際法、注意すべきこと、何を書くか(撮るか)、何を書かないか(撮らないか)、自身のジャーナリストとしての哲学を追及する必要性、などを、教わったことがある。

教えてくれたのは、実際に、コソボなどの戦場で写真を撮り、ヘンリ・カルチエやロバート・キャパなどの20世紀を代表するフォトジャーナリストたちが設立したマグナムという組織に属し、世界的賞をいくつも受賞しているイタリア人の、フォトジャーナリストだった。少年兵たちの写真を撮った、胸を打つ、素晴らしい写真集も出していた。一緒に学んだのは、NYタイムズなどに戦場での写真を提供しているアメリカ人写真家や、オーストラリアの大學教授などだ。

そんな授業に大学生としてたった一人参加し、師とクラスメイト達に、ジャーナリストの役割はなにか、報道するということは何か、というのを、客観的に学び、より深く考えるようになったのはこのときだった。わたし自身、多国籍のジャーナリストや哲学者たちに日本の家で囲まれて育ったという生い立ちを持つせいもあると思うが、短い間だったが、このイタリアでの、実際に戦場で写真を撮ってきた人たち、本を書いてきた人たち、記事を書いてきた人たちから学んだ経験と知識は、ジャーナリズムの意味を骨身に沁みて感じさせられることになった。

課題も大変だった。ニコンとライカの重い一眼レフカメラを二台、レンズを数本、そして、何十本ものフィルムを抱えて、昼から翌日の朝まで夜中も通して、一人でイタリアの旧い町を写真を撮り歩いた経験は、今でも忘れない。自分で言ってもはばからないくらい、強靭な肉体を当時のわたしは持っていたが、それでも、肩と足が恐ろしく痛く、脳も疲労困憊した。初めて行った国の町々で、見も知らぬ人々の写真を撮ることの難しさと大変さ、マナーと技術と人としての倫理観、モラルをほんの短いだったけれど体験することになった。(数枚だけ、パソコンに当時撮影した写真があったのでアップしておく)

NYの大学からイタリアに短期留学した時に撮影 
神輿を担ぎ朝まで歩き続ける男性たち(と、歩き撮り続けた私・・)

これらの体験と知識の見地から、日本のメディアや、ジャーナリストと呼ぶには憚れるほどの記者たちの行動や仕事を見ると、申し訳ないくらいに稚拙に感じる。なにより、相手と社会全体を見る、という能力に欠けている。

もちろん、ジャーナリズムを追及する記者たちもいて、素晴らしいNHKのドキュメンタリーを観た時は、感動したことがある。(『正義の行方~飯塚事件 30年の行方』) それから、今の星にタイムリーなウソについてのドラマ。『あれからどうした』も、日本的なペーソスが効いていて、クスリと笑える上質なドラマだった。ジャーナリズムではないけれど)

けれど、圧倒的にジャーナリズムにおいては、寂しいほど骨抜きに感じる。ウクライナーロシアの戦争が始まった時も、日本の新聞記者たちは、すぐに退避して、現地からの報道はほとんどなかった。戦場における記者たちのトレーニングだとか、マナーだとか、国際法への対応とか、あまりないように感じた。今の、パレスチナ報道も同様で、リソースが限られているのが見ていてよくわかる。現地の現地人とのコネクションが、どう見ても極端に限られているのだ。そのため、ニュースに「全体像」が見えない。受け取り手は、断片的なニュースしか聞かないから、意味がわからない。そんな風になっていることがうかがえる。

そんな報道しかできなくなっている起源は、学校の生徒の勉強の仕方にもあるように思う。子供たちは、ただただ他者(文部科学省を筆頭とした日本の教育界)の求める正解を丸覚えし、それでよい点数を出すことが求められる。自分で考える、そして、自分の出した答えが、周りや社会と、どのように関わりがあるか、互いに影響を及ぼしあうか、というようなことを、学ぶ機会が与えられていない。

それに、何と言っても圧倒的に外国語力、英語力がこの国は弱い。戦争は他国同士がするもので、戦争報道は言語ができないと、どうしても不利である。環境問題にせよ、パンデミックにせよ、戦争にせよ、このごろは地球規模の問題が山積みで、外国の言語のできない国は、どうしても形勢が悪い。

当然、教師も同じである。そのような教育システムの中で育った若者たちが、教員免許一枚持って、たった二十歳ちょっとで教壇に立つことになるのだから。

そして、教壇に立った後も、勉強したり新しい経験をする機会が、世間を知らない教師たち与えられることは、ほとんど皆無である。教師としても、人間としても、成長の機会が与えられないのだ。同じループの中を生徒たちと一緒にグルグルと廻っている。

これは、周りにいる複数の別の学校に勤める教師たちに実際に見聞きしていることであり、実際にわたし自身も中高生に英語を大学受験英語も含めて教えてきた経験から知るところなので、現実である。

教育現場やジャーナリズム業界だけでなく、このような、システム化された人々の無能化と低効率化が綿々と行われていて、出口が見つけられないのが、日本の現状ではないか、と、観察している。日本は、欧米各国の労働者たちの間でも有名な、発展国で一番生産効率の低い国である。そして、人々は分断され、互いに思いやることができなくなっている。

その結果が、フィギュアスケートに興味関心も知識もない、見ず知らずの記者が「普通に」取材して、ある有能なスケーターの若者の結婚を、破綻にまで持ち込むのである。

この記者は、普通に日本の記者として当然のことを、何気なくやったつもりだろうが、その普通で当然のことで、羽生さんの結婚相手の素性がわかり、メディアがハイエナのようにその事実にたかり、彼等は生活がままならなくなり、結婚が破綻したのだ。

わたしたちが行うすべてのことには、因果応報がある、ということを知るよい教訓だと思う。なににしろ、こうやって個人でネット上で発信するわたしも含めて、その内容については、事前の吟味の必要がある。今回の羽生さんの件にだけでなく、社会的に絶大な影響力を持つマスメディア関係者は、その責任と意味を自ら問いながら仕事をすることが肝要だと考える。羽生さんの件に関して、メディア側の反省は今のところ見られず、それより、最初の離婚声明が出てから、自分たちの擁護と湾曲的な羽生バッシングが続いていた。(体制側は現状維持をしたがる星がもうしばらく続く)それでも、だ。

今回の件は、有能な国際的著名人である羽生さんが(中国で圧倒的人気を誇ると聞いたことがある)正義感が強く愛情深い人であったため声を上げ、メディアの権力の乱用と嘘が、改めて明らかになった。しかし、このようなことは、メディアの世界だけでなく、世の中全般で頻繁に起こっているだろう。

子供から大人までいじめが絶えないのも、そうであろう。いじめをしている人たちは、いじめをしていることに自覚がない人が多い、という統計を見たこともある。羽生さんのお相手のことを暴露してなお「普通に取材した」と、悪びた様子がない記者と同じである。こういうことは、家庭内からすでに始まっている、と、わたしは観察してきている。

実は、家族を表すかに座の満月にちなみ、家族と羽生さんのことを書くつもりでいたが、羽生さんが使った「妄想」「嘘」「想像」という、今の星のテーマにピタリと当てはまる言葉、そしてメディアという権力に立ち向かう羽生さんを見て、この記事となった。今は、嘘や欺瞞に満ちていると同時に、権力に対して声を上げる、異議申し立てをする人たちが出てくる星が強い。(かに座の満月と星々の予報を参考)これから紹介してゆくつもりだけれど、海外では多くの異議申し立ての動きが起こっている。日本では、今のところ羽生さんが、受けて立っているような形だ。

彼は、まだまだ幼くて、それほど世間に知られていなかったころから、何か光るものがあった。他とは違う、深いスピリチュアリティ(精神性)を持ったスケーターだと感じていた。今回も、ご本人が意識しているかどうかは別としても、星の動き、世界の動きに敏感に、ピタリと連動している。

メディアと一緒になってまだ若い青年を、嘘や妄想で傷つけたりするのではなく、みんなで彼のような人を応援し、彼のような人を見て、自分もがんばってみよう、と思えるようなときが来るといい。

彼自身は全てを飲み込んでなお、成長しようとしているようですが・・。

時代は動いているのだから。

多くの人が、システムを変えればなんとかなる、個人には力がないと思っているが、新しい時代は逆である。一人一人が、愛に目覚めれば、自然とシステムは変わってゆくのだから。

・・・・・
 
文・写真 by さっか







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