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祖父の原稿 3

戦前、戦中の時期の自伝を書いた本を二冊自費出版した祖父。戦後の話についての原稿は出来ているが、製本する気力がもうないと言っていた。ある日祖父からまるまるその原稿を託された。
 親族皆が読めるようにこれは世に出すしかないとnoteに記していきます。
 静岡にいる祖父齢99才。コロナでなかなか会いに行けないがまだまだ元気でいて欲しい。孫、頑張って手書きの原稿解読して文字を打ち込んでいきます。

三.  焼津マラソン

焼津市は印象もない町である。ただ知っているのは、漁業の町ということを小さい時から聞かされてきたこと。終戦の前年昭和19年静岡連隊で行軍演習の折150(現416)号を通り抜けたこと。南太平洋で米軍が行った水爆実験の被爆者久保山愛吉さん等を出した町焼津とした認識程度の関心の薄い町である。
 そんな不案内な焼津市陸上競技協会から、マラソン参加の呼びかけがあった。
 昭和54年3月1日、第5回焼津20kmマラソン大会。20km正午スタート、10km12時10分スタート。20kmの部(年齢制限なし)。10kmの部、〜34才、35〜44才、45〜55才、55才以上の4部。
 多数の出場希望者があるものと期待して開いた会合で、名乗り出たのは、144名の会員の一割強17名という少なさ。それに若い人の参加がないのに驚いた。20kmを走るというのが27、45、48才の3人だけ。10km30代3人、35才以上で3人、45才以上6人、55才以上5人、これは自分の部61才の最高齢者松野出身で安倍青年部会で健脚を誇っていた松永又一郎。何時も俺にライバル意識を剥き出して向かってくる55才の鈴木伝次郎。今迄どこのレースでも敵愾心を燃やして走り合う同年56才の増田輝男。自転車販売、修理業の小柄で好々爺然とした59才萩原長松。自分と5人となった。
 会場は石津浜スポーツ広場(県立焼津青少年の家)とある。この見出しは市民の健康、文化を兼ねたスポーツ広場を造り、青少年の家を建て、5年前には陸上競技協会による当大会を開催することになった極めて進歩的な街であることに感動した。
 西進する150号を石津の交差点で左折し、前の川橋東、石津向町境交差点を通って石津港水天宮前へ出た。ここでバスを降りた。直ぐ社が目についた。水天宮に水と拘る神社を見るのは初めてだ。森林や山を従えた陸地にある八幡神社とは雰囲気が異う。舟人の守護神とあって、漁労の町焼津の印象を強く受けた。
 木屋川に架かる水天橋を渡って、柔らかい浜風を包むように松林に囲まれた公園に入る。公園の中心部にスタート、ゴールと大書したアーチに迎えられて受付を済ます。
 大会要項を見る。20kmは年齢制限がなく、出場者は、旭化成、本田技研、滝ヶ原陸上自衛隊と県内外の大企業の専属選手が名を連ねている。小さなイベント大会位に思っていたのに充実したこのメンバーに打たれた。この圧倒的強力な若年選手のいる中へ、45才の萩原利平、51才の金原昭雄の挑戦は、勝負は抜きにしても、長距離を走る意気込みは見上げたものだ。
 10kmの部は年齢別に4部に別れている。〜34才66名。35〜45才39名。45〜54才30名。55〜16名。計151名と規模は意外と小さかった。
 増田さんには負けないぞと、浜風除けの松並木のコースを無性に走った。栃山川河口を越して老人センター前を折り返す。あとは水天宮を目指してありったけの力で走る。ゴールに飛び込んだ。首に55−1のカードを掛けられた。
 10キロの部総合77位。55才以上の部一位優勝森脇一男、時間40分51秒。2位松永又一郎、41分25秒。3位磐田走友会河島和夫、41分57秒。8位萩原長松44分9秒。10位増田和夫45分7秒。静岡走ろう会は15名中堂々上位を占めたレース展開となった。
 夢にも見たことないのない表彰台に上がって、優勝状を受け、副賞として尾頭つき鰹を手にする。表彰台の前面に陣取った静岡走ろう会から上がった拍手と万才に思わず涙が出た。
 川根に帰ってこの感激を父と話し合うため、皆と別れて電車に乗る。金谷駅で大井川線に乗り換えた。何年振りかで乗った車内を見た瞬間、33年前の復員時を思い出した。
 「勝たねば再び生きて帰りません」と出て征った。多くの戦友を死なせ戦争に負けて、俺ひとり生きて帰った申し訳なさに、人目を避けて椅子にうずくまった。
 あの苦しかった車内が今日は違う。長い間張り付いてきた忌まわしさが吹き飛んだ。絶頂の充実感を味わった。優勝は俺を変えた。
 玄関に出てきた父の前へ賞状を差し出した。今まで聞いたこともない大歓声を出して両の手を出して受け取った。
 「鰹は俺が料理する。着替えをしたら久し振りだ優勝祝いの一杯といこう。」全身元気を湛えて喜んだ。物静かで何か考えに沈みがちな父が、この仰山な喜びを見るのは初めてだ。これが切っ掛けとなって俺の前途は全開した。川根のことを気にすることもなく、全力で仕事に立ち向えることになった。
 日本復興が完成した電力界は、発電所、変電所の設備自動化、無人化を進め出した。この工事受注は請負業車間で一番となり、我が腕の振るい結果は、過去受注の3倍以上となって、採用してくれた岡部社長に大きな恩返しが出来た。また大容量変電器の取り替え工事では、中電先輩の居る中電工事よりも優位な実績を残した。戦中、戦後道路状況の悪い辺地の発変電所へ据え付ける変圧器は全部品を現場に持込みコアーの積み上げコイル入れと現地組み立てしたものばかり、取り替え後も当然組分解しなければならない。幸い自分は、久野脇発電所建設時、その変圧器を日立工員と一緒になって組み立てた実績がある。久野脇発一号電変、大井川浜岡連携変圧器、奥泉発一、二号電変、井川発一号電変と難なく取替え工事を終了した。中電は二号電変取替を受注したが解体技能がなく、元メーカーの日立工員に工事を依頼した。
 今度は岡部社長から感謝の言葉が返ってきた。焼津マラソンは俺を大きく成長させた。


 孫感想
 走るの速い。僕も健康維持でランニングしているが、10km40分は速い。祖父すごいなぁと思った。
 短い文章ではあるが、復員時の大井川鉄道車内での記憶の回想シーンがとても印象的だった。
 


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