祖父の原稿 4

戦前、戦中の時期の自伝を書いた本を二冊自費出版した祖父。戦後の話についての原稿は出来ているが、製本する気力がもうないと言っていた。ある日祖父からまるまるその原稿を託された。
 親族皆が読めるようにこれは世に出すしかないとnoteに記していきます。
 静岡にいる祖父齢99才。コロナでなかなか会いに行けないがまだまだ元気でいて欲しい。孫、頑張って手書きの原稿解読して文字を打ち込んでいきます。

四.小豆島オリーブマラソン

 昭和55年5月23日開催、第3回小豆島オリーブマラソン全国大会の招請が届いた。厳冬2月第2日曜日の練習会で勝谷会長が発表し出場を呼びかけた。
 前年東京で行われた全国OB駅伝大会で、静岡走ろう会の名をあげたのが、四国と遠方に及び知られ、大会参加要請となったことに喜んだ。良いレースで行ってみたいが、一寸と遠いなの言葉が多く、後日決めようと解散になった。
 練習会を終わって帰ってきてポストを見たら、7ヶ月前に結婚して岡山で所帯を持った早苗からである。
 「小豆島マラソン大会がある。大会は5キロ、10キロ、ハーフ(20キロ)の三種ある。特にハーフは『二十四の瞳』の岬まわりでほとんど海岸線を走るので気持ちよさそう。出場意思があってどのコースか決めればこちらで申し込みます。」とある。
 岡山で新婚生活を始めたばかり。最大に夫へ尽くさなければならない、あれもこれもと所帯に気遣わねばならない大事な時にありながら、走りに夢中になっている親のことに気を使ってくれる娘の心情が突き刺した。
 本来なら走ろう会の集団申し込みの一人なのだが、これ程まで案内してくれるのに応えようと、自信はないが二十四の瞳に惹かれてハーフを走ると電話を入れる。
 5月22日岡山に来て泊り、当日朝土庄港行き高速艇に乗れば十分間に合うという誘いは断り、スタート地点近くの大会指定寒霞渓荘泊を依頼する。
 大会前日22日、初めて岡山駅に降りた。駅前のモモタロー銅像に会って昔むかしおじいさんとおばあさんがありましたの童話を思い出し桃太郎はここだったのかと小時にかえる。行き先迄を心配しなくても良いタクシーで岡山港につき、土庄行き高速艇に乗る。マラソン参加者とおぼしき大きなバックを持った人達で艇は膨れ上がった。頭越しに窓外を見る。多くの小島に分け入るように広がった瀬戸内の潮路は素晴らしい絵だ。完全に目を奪われた。
 深く入り込んだ入海の最奥にある土庄港で期待の小豆島に上陸する。改札口を出た玄関手前左側の広場、オリーブの木を背にして建っている(二十四の瞳平和の群像)が目に入った。ここは明日行くところ胸を打った。
 過酷な太平洋戦争の最中、いたいけない小学生が、戦火を免れて塩谷岬の分教場で、先生に縋り付くように生活した12人の姿が浮き彫りとなっている。着ている粗末な絣(かすり)筒袖衣服から悲惨さが滲み出ている像を見て、戦争の悪さを思い出した。
 「ようこそ小豆島においでくださいました。ヨーロッパの地中海を感ずる小豆島で、初夏のさわやかな潮風と光を身体いっぱい浴びて、オリーブの花咲く海岸を心地よく駆け抜けてください。小豆島マラソンでは、オリーブの月桂冠を使っています。オリーブをヨーロッパでは平和と充実の象徴にしています。マラソン会場は壷井栄の生誕地坂手町が発着地点となっています。バスはその坂手港まで行きます。頑張ってください。」
 さわやかな車掌のアナウンスが終わった。静かにバスが動き出す。土庄の町は古い建物が両側から道路を挟み撃つように並んで道を塞いでいて、バスが行くと対面交通の車両は家の軒下に逃げ込むようにして道を空けてくれる。その狭い道路国道436号が15km島を縦断して坂手港に走っていると聞いた。
 峠と言っては大袈裟だが、低い山間の切り通しを過ぎた下り坂に入ったところで、運転手がハンドルを大きく右に切った。バスは道路を外れて変則な停留所に入った。見れば左側は迫り出した山裾を切り拓いて道路をつけた、ここで通行待ちと停留を兼ねた広場だった。全島山裾は海という困難な道路事情を抱えた小豆島を見た。
 「みなさん、右手をご覧ください。丘の上に背高い南方の椰子林が見えます。いいえ棕櫚(しゅろ)です。椰子科の植物で、高木の棕櫚は高さが10メートルにもなりますが、小豆島のこの棕櫚は日本一高く12メートルあります。木立の本数35本と纏(まと)まっていて小豆島を南方の島にイメージしている大事な観光の資源となっております。またこの林を背景に海側斜面には数十羽の孔雀が乱舞している園があります。お帰りの際には是非お立ち寄りください。」
 確かに南方に似ている。大手を空にかざしている高い棕櫚を見た瞬間、セレベスでアムラン警備についた椰子林が眼に浮かんできた。
 バスは緩やかな坂を下り切ると山から抜け出して平坦地を走る。疎らな人家を隠すように道路の両側には、3、4メートルに伸びた大株のオリーブが平地を覆っている。バスが通過で巻き起こす風にゆれて、甘いような香りが車内に流れ込んできた。ここでも牧歌的な南方を思い出させた。
 もくもくと沸き立つ雲のように林立したオリーブが全山を覆い、開花最盛とあって山燃える感あるオリーブ園に着いた。よく見ると細長い裏白銀の青葉が幹から対称に出ていて、その付け根に小花弁の小花が群がり咲くのを抱いている。この繊細な植物が小豆島を背負っているのだと深く感じて見上げた。
 水木を過ぎ大きく岬を廻ったバスの真正面に高い山塊が見えた。巨大な牙を空に向かって突き出した断崖絶壁が瞬間肝を冷やした。寒霞渓(かんかけい)といい島内最高の名所と聞いた。取った宿泊先の名と同名の奇遇にマラソンへの意欲が高ぶった。
 この渓の北側には、かつて武家政治時代の江戸城、大阪城の築城、明治になって日本道路の起点となっている日本橋の築橋に使った花崗岩の切り出し跡も有名地となっていると聞いた。石器道具もない時代に、この固い岩石の切り出し、山降ろし、舟積みの苦役を権力亡者に強制酷使された、農、町民を思うと歴史的名所となったことに矛盾を感じた。その貧富の葛藤を産んだこの島は「古事記」の国産みによれば、10番目に生まれた島である。その神聖な島であっても、権力は、島も人も使い殺しにしていたのだ。
 好印象で島入りしてきたが、石切り出しの島民苦痛を耳にして小豆島を考え直した。
 草壁本町に入った。道路脇のオリーブを圧するように(10キロ、ハーフ折返し)の大看板が目についた。道路がますます狭くなった。その家並みの間、裏には寒霞渓から湧き出し水を引き、それを使って素麺を作る工場が続く苗場町、ここを過ぎると幟旗(のぼりばた)に社名を大書(たいしょ)した看板が立ち並ぶ。看板を数えているうちに、通ってきた醤油屋の醤油を使って、島のまわりで獲れた海産物を煮込む、佃煮屋さんの町でたっぷり匂いを嗅がせてもらう。
 島の実態を見聞きしながらバス乗車しながら1時間が過ぎて、坂手港壷井栄の碑の前、大会受付会場でバスを降りた。
 ハーフの部。男子30〜39歳。40〜49歳。50〜59歳。60歳以上。女子30〜39歳。40歳以上。10キロの部。男子、20〜29歳。30〜39歳。40〜49歳。50〜59歳。60〜69歳。70歳以上。女子、20〜29歳。30〜39歳。40歳以上。5キロの部。男女共10キロの年齢別同様。25区分。参加者北海道〜九州鹿児島まで2311人。
 受付で受け取った大会の内容である。町民数も少なく、財政も苦しいというのに、手間、費用のかさむ大会の間口を多くしている。1人でも多くの人を迎えたい、走りに興味を持つ人数を増したいと、参加者を増やすために、年代区分を25と増加させた企画は、単に人集めだけでなく、出来るだけ多くの人が健康増進、管理のために走りに興味を持ってもらうよう気を使った島の人たちの奉公心と分かって嬉しかった、感謝した。
 ゼッケンB-58のナンバーカードと、参加賞の入った手提げ袋とオリーブの小鉢植を受け取って宿に向かった。スタートから1キロの地点に立っている表示板の続きに寒霞渓荘の入り口があった。ホテルは高台にあって坂手湾、内海湾の展望が利く、絶好の休養施設と感じた。
 案内されて部屋の入った。1人の先客に挨拶もそこそこ、夕食が始まるがと案内に誘われて風呂に立った。
 芋を洗うというより激しい入浴者で一ぱいの室内では、体を動かすのが精一杯混み合って洗えるようなものではない。今まで緊張してきた体を風呂で治そうなどとんでもない、観念して佇んだ。隣から声がかかった。「一寸(ちょっと)我慢すればすぐ空きますよ」と、旅慣れしているのか、無頓着というのか、この混雑を平然として話しかけてきた。
 「どちらからお出でですか。申し遅れましたが私は熊本水俣から来た坂本国彦といいます。実は2年前に定年退職した無職者です。再就職の意思が全く無く毎日家でゴロゴロしていて、女房と睨み合っているうちにストレスが溜まりました。それが高じてうつの気配が寄って来ました。医師からランニングを勧められて走りを始めました。できる限り人の集まるところで走ることによって多くの皆様の顔を見られるのが最も良い薬になります」
 人好きのする砕けた言葉に惹かれた。
 自分は健康のため趣味のような走りになっているが、坂本さんの話は真剣に自分の心体の健康を考えての行動だから大したものだ。走ることの幅広い効用があると貴重な体験話をもっと心に受け止めた。
 10時30分。ハーフスタート。競争心を捨てて街頭を観ながら走ることにして集団の後方にいてスタートする。走ってみると車窓から見た街とは大きく異なった。佃煮屋さんの町を過ぎ醤油屋さんの町に入る。道の両側を埋め尽くして応援してくれる町の皆さんは、小旗を振り、両手を万才し、冷たい水のコップを差し出してくれる。消防隊員が大型のシャワーをかざして歓迎してくれる。親身の歓声を受けて第一折り返しを廻って走りを上げる。町の人に応えるために、もう前を見るだけ前走者の間を分け入って走る。波の音で気付いたコースは塩谷岬の入口5キロの折り返し点と分かった。潮風いっぱいの海岸沿い路面は緩い上り下りの傾斜が連続していて走りにくい。田浦まで来た。苦しいが速度は落とさず二十四の瞳の跡だけは見たい。
 平屋で太陽に照り付けられながら静まりかえっている岬の分教場には、人影もなく淋しそうに立っていた。苦しい歌の中に戦時中の食糧難が浮かんだ。
 塩谷岬第2折り返し点を廻った。あとは一挙に坂手ゴールを目指して1人でも多く追い抜くと頑張る。無事ゴールイン。完走証を受け取ると会場広場の流し素麺食べに飛び込む。寒霞渓の湧水を使って作られた素麺が太い半割りの竹樋(とい)を勢い良く流れてくる。蟻がたかった菓子のように竹樋に群がった大人、子供の箸から逃れて来た分を、かき集め、舌鼓を打って満腹になる。
 小豆島オリーブマラソン大会参加は、歴史文化、人間関係の大事さを教えてくれた。島の人達のあたたかさに接することが出来た。終生有難い人情に目覚めた。

 第3回オリーブマラソン参加から、平成17年の第28回大会まで26回1年も欠場することなく連続出場出来たのも島人の人情だった。


 孫感想
 幼い頃祖父がオリーブの鉢植えを抱えて来たことを覚えている。オリーブマラソン帰りだったのだろう。
 庭に大きなオリーブの木が生えていたのはそういうことだったのかと納得した。
 祖父の原稿を読んでいると本当にたくさんの発見があります。幼い頃の記憶と気持ちががたくさん蘇って来ました。
 小豆島の温かい人たちに囲まれて祖父楽しくマラソンできたようで何よりです。

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