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祖父の原稿 2

戦前、戦中の時期の自伝を書いた本を二冊自費出版した祖父。戦後の話についての原稿は出来ているが、製本する気力がもうないと言っていた。ある日祖父からまるまるその原稿を託された。
 親族皆が読めるようにこれは世に出すしかないとnoteに記していきます。
 静岡にいる祖父齢99才。コロナでなかなか会いに行けないがまだまだ元気でいて欲しい。孫、頑張って手書きの原稿解読して文字を打ち込んでいきます。

二. 第7回全国OB駅伝大会

 昭和53年5月4日、その日私は中川根村上長尾の実家の畑で新茶の摘み取りをしていた。「静岡の勝谷さんという人から電話が入っている。」と、休んでいた父が裏戸口に出てきて呼び掛けてくれた。
 実は自分この1月28日満55歳の誕生を迎えて、中部電力(株)を定年退職した。まだ若いし、年金も少ない人生でもう一度就職したいと考えたら、前年母が亡くなって1人になった父も老化が進んで元気がなくなって引込み思案にしているので、5畝ほどの農地に作りをしながら父と暮らそうかと引込んだというところだった。月に一度静岡に出るだけで、走ろう会もご無沙汰限りになっていた。
 電話に出た。
 「来月6月11日、皇居内濠1人1周5km5走者の第7回全国OB駅伝大会がある。静岡走ろう会も参加することになった。もう日数がない。至急選手の人選をしたい会合に出よ。」と言うことだった。
 現在退職後の複雑な心境であること、手の離せない茶期であることを話して、人選は出席者で決めて下さいと電話を切った。
 夜間になって再び会長から電話があった。
 「駅伝はランナー会員の気力、体力が揃っていて総合力で勝負するものだ。A組1走2走60歳以上で松永又一郎(60才)、中川新一(62才)。3走4走50歳以上。ここでどうしても森脇さんに出てもらわないと人が無いということで決めた。万難を排して出場してくれ。4走は増田輝男(55才)5走40歳以上萩原利平(45才)。B組1走渋谷田一(65才)2走池谷市郎(66才)3走平野平一(57才)4走鈴木専二郎(54才)5走水野照彦(43才)会員55名中ランナー10名で自分を除く9名全員旧ラジオ体操会のメンバーとなったことの知らせであった。

 昭和26年前回東京行きから4半世紀も過ぎた東京は変わっていた。変わるはずだ。戦後日本復興も達成し、1955年にはオリンピックも挙行され東京はすごく変わり輝いている。変わっていないのは皇居前広場と先にある楠木正成の銅像だけ。
 その外苑広場が全国OB駅伝大会の会場であった。スタートは桜田門の内側100メートルのところにあった。
 会長から渡されたメンバー表を見て驚いた。関東地方のチームが多いが、熊本、宮崎、新潟、茨城、山形から139チームが参集した規模の大きさを見て、ノコノコ出てきたが赤っ恥を掻くのではないかと身が縮んだ。ランナーの中には50歳台4走にボストンマラソンで優勝(世界最高2時間18分51秒)した山田敬造さんが出ている。自分と同じ3走には1964年(昭和39)東京オリンピックで銅メダルを獲得し「小型機関車」と異名をとった圓谷一雄(54歳)が出ていた。大変な相手と一緒になったものだと重圧を感じた。
 11時号砲が鳴って1走139人がスタートした。全員の背中を見送った。あっという間にゼッケン127-1を付けた三菱走友愛知の1走が飛び込んできた。早い18分台だ。続いて11位で我が松永が入ってきた。タスキを受けて走り出した中川の背中に檄を飛ばして、今度は自分がタスキを受けるために、スタート近くの人混みの中に割り込んだ。
 隣の人と肩が強く触れ合った。顔を見合わせる。ゼッケン413を付けている。圓谷さんと分かった。全くの奇遇に我を忘れて、「圓谷さんですね。私は静岡の森脇です。お会いできて光栄です。」と軽口に口ずさんでしまった。相手は驚いたように「ああ自分は、、、、」と言いかけた時「見ろ中川が入ってくるぞスタートへ」と増田さんに肩をたたかれて、「あとで」と彼に一言残して立ち去った。
 タスキを受けて夢中でスタートした。楠木公の銅像は見えなかった。気がついた。大手門前だと分かるようになった。中間点を過ぎ千鳥が淵の松林の中で追い抜いたランナーの背中は413だ。圓谷さんと認めた。離されまいと彼の尻に食い付いて走った。ようやく桜田門を潜った。4走の増田さんにタスキを渡して側に倒れ込んだ。背中を叩かれて見上げたら、差し出してくれた手に引き起こされて立ち上がった。圓谷さんではないか。圓谷(つぶらや)さんと呼びかけた。「いや私はつぶらやではなく川崎OBマラソンクラブの園谷(そのや)です。円谷幸吉選手は10年前に亡くなりました。」園をつぶらに読み違えた恥ずかしさよりも、旧来の友のような頼もしさで自己紹介してくれたのに感動した。
 レースが終わって結果の発表を待つ。
 静岡走ろう会A組、総合順位21位。時間1時間42分43秒。(1走松永、総順11、時間20分29秒。2走中川、総順13、時間22分13秒。3走森脇、総順14、時間20分1秒。4走増田、総順15、時間20分1秒。5走萩原、総順21、時間19分59秒)優勝三菱走友愛知A、1時間31分35秒。オリンピック出場山田敬蔵さんチーム黒東走友会A、3位、1時間33分13秒。園谷さんチーム川崎OBマラソンクラブA、12位、1時間38分16秒、3走園谷、総順13。
 開催歴7回となる全国から天狗の集まりの大会に、結成2年で静岡走ろう会が出てきて堂々21位の成績を上げたと大満足した。
 会社を55歳で定年退職し、これからどう羽ばたこうか人生の折り返し点に立って悩んでいるときに、静岡走ろう会の一員となってこの結果を出したことで磐石の自信となった。
 父も喜んで元気になった。以前から誘いのあった岡部操社長率いる大洋電機に入社する背中を押してくれた。
 全国OB駅伝大会は我が人生を大きく変えてくれた。園谷選手と意気投合したのは幸いだった。



  孫感想
  映画の世界でしか耳にしたことのない東京オリンピック1964。実際に出場した選手の話などもここには出てきて、よりリアルに当時の様子を感じました。
 走ることを見つけて、また走ることを通して人と出会い、祖父なんだか楽しそうです。

 幼い頃、祖父が勤める会社まで仕事終わりに迎えに行った記憶があるのですが、それがこの話に出てくる大洋電機という会社です。デスクに座る祖父の背中越しに射し込む夕暮れの光が、今でも脳裏に焼き付いています。


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