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ひねくれ

最近の雑感というか、考えていることをただ書いてみる。ほぼ自分の話をしてるだけです。得るものはあまりないと思います。

メジャー志向ではない

自分の場合、そもそも有名になりたいわけでもないし、注目されるようなものを作りたいという欲求が強いわけでもない。でも見られることが嫌いなわけではないので、例えば、noteだって読まれてる数が多いと嬉しいし、スキがつくとうれしい。

そういう自分の立ち位置について「なんでだろうか」といろいろ考えてみた。

それは、「自分のやりたいこと」「多くの人が注目すること」との距離があるというか、向いている方向が違うんだろうと思う。そこがたまたま一緒だったら、「自分のやりたいこと = 注目されること」となって、たぶん自然体のまま注目されるんだろう。

そんな理路整然としてない

まてまて、そんな整理された感情ではない。

そもそも、自分は「ひねくれ者」だ。みんなが右を向いてたら、左を向きたい性分だ。たまたま、あるときに「正統派のほうが少数派」ということに気がついて「割と正統派の雰囲気」でやってるけど、そうなった経緯も含めてきっと「ひねくれ者なだけ」だ。

そういう自分の性格を考えると、自分のやってることがたまたま注目されたとしたら、きっと「別のことにシフトしちゃう」んだろうな。「あ、いえいえ、僕はこっちの方面はもう飽きたんで、別の方に行きます」みたいな。

大衆に認められるのは無理っぽい

この性格をどうにかしない限り、大衆と向き合って生きていくのは無理っぽい。とはいえ、「誰にも見られなくても平気です」とまでは達観してない。実に中途半端なわけだ。

誰向けに調整するか

展示のことを企画したりを若い頃からやっている。というのは、自分の作った作品などを何度となく展示してきたからだ。自分が面白いと思って作ったものを、展示したときに人がどういうふうに見るのかを研究する機会がたくさんあった。それによって、ある程度わかっていることもある。

「こうすると注目度が上がる」とか、「こうするとわかりやすくなる」とかだ。見る人がどう思うかを予想して構成を検討する。

注目を受けるために派手にしたり、現象をわかりやすくしたり、鑑賞しやすいものにしたりするのは、とりあえずできると思う。でも、それを徹底的にやったとして、それが良いものかどうかと言われると、「それとこれとは関係ない」というのが正確な解答だろう。良いものが多くの人に気に入られるわけでもないし、気に入られるものが良いものでもない。

ていうか、そもそも良いか悪いかを決めるのは個人の感覚なわけだし、気に入るというのも個人の感覚によることだ。

つまり、「わかりやすくする」とかそういう言葉も、「わかりやすいと感じる人の母数を増やす」という調整だろう。

普通ってなんだよ

自分も使う言葉だけど、「普通」って言葉がある。「普通さ、こういうときは違うよね」とか「普通盛り」とか。「普通ってなんだよ」って思うよね。いったい誰基準の普通なのか。

とかなんとか、中学生みたいなことをひとしきり言ってみた。

自分の場合

作品を作るときは、だいたい妻を基準に作ることにしてる。妻がいいと思うように調整する。コンセプトの時点でも、言葉で説明して評価してもらう。言葉の時点で「面白そうと感じる」かどうかで評価できるだろう。そういう基準として妻に相談してきたが、そんなこんなを20年近くやってると妻の方も世間一般の感覚よりも自分と近い感覚になってきてると思う。これって面白い変化だと思う。作るものにも影響がでてるはずだ。

一応

なんか、こういうことを書くと、仕事頼まれないんじゃないかとか、ちらっと頭をかすめたので、言い訳しておきます。

なにをするとどう見えるのかはわかってる方だと思うので、それはいかようにでも調整してアウトプットを作っていきます。そういうときはひねくれ者ではなくて、割と器用な感じでやってます。はい。

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