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本を探す

 僕は図書館で数年間アルバイトをしていたことがある。それは通っていた大学附属の図書館で、正規の職員が退勤した後の夜間の業務を数時間行うものだった。
 本の貸出・返却の処理や細々した事務作業が主な仕事で、司書資格を持っているわけでもないので、専門的な業務をするわけではなかった。
 利用者に何か困ったことがあれば手助けをする。探している本が書架にないとか、この分野の本はどこにあるのかとか、コピー機のインクが切れたので補充するとか、そういった類のことだ。
 専門的なレファレンスや込み入った相談に関してはさすがに手に負えないので、自分たちが正規の職員ではないことを伝えて再度来館してもらうようにする。
 図書館のカウンター内にいる者は全員しかるべき資格を持っていて、利用者のあらゆる要求に応えることのできる技能を持っているわけではないということを、当然のことながら誰もが知っているわけではなかった。

 ある勤務の夜、1人の利用者がやってきて僕に尋ねた。
「『×××』という本を探しているんですが見当たらなくて……」
 品のいい眼鏡をかけた、少し陰のある雰囲気のいかにも人文系という感じの女性だった。その書名からも——僕が社会科学の分野を専攻しているということもあって——おそらく社会科学の分類の書架に配架されているであろうことがわかった。
 図書館で本を探す場合にはまずその分類から大まかな書架の位置を特定し、実際にその場所で著者名の並び順をたよりに目当てのものを見つけることになる。
 本を探しているが見つからない、と相談に来る利用者の大半は書架の位置を勘違いしていることが多い。辞書のように専用の書架にまとめて別置してあるものだったり、そもそも分類区分の見方が分からずにやってくる利用者には一から本の探し方を教えなければいけないこともある。
 とりあえずはデータベースで該当の本を検索する。予想通りに社会科学の分類で、貸出はされていないことがわかる。
「貸出はされてませんね……3階の奥のあたりに配架されてますが、そちらを探して見つからなかったということですか?」
 ただ単に本の探し方がわからないだけなのか、自分で探した上で相談にやっていきているのか、本格的な探索に乗り出す前にその点を確認しておく必要がある。
 すると女性は心細そうな声で、それでいて明瞭な口調で返答してきた。
「はい、分類番号もしっかり確かめましたし、参考図書でもないので普通に書架にあるものかと思うんですが」
 ということは話がだいぶ厄介になってきた。誰かが貸し出し処理をせずに閲覧している可能性もあるし、閲覧した誰かが間違った場所に戻したということもある。この場合、書架の近くにその本を閲覧している人がいないかどうかを確かめたり、周辺の書架を探索したりしなければいけない。それでも目当ての本が見つからない時には、正規の職員に向けて捜索依頼を出す必要も出てくる。
 いずれにしても、まずは自分が改めて状況を確認しておかなければならない。僕は出力した書誌情報を手にし、女性とともに該当の書架へと行くことにした。

 目的の本が配架されている場所は、僕が普段よく使っている書架とは少し離れたところにあった。たまに面白そうな本がないか覗いてみることはあったが、正直専門外といっていい書架だ。書誌情報と書架が一致していることを確認し、女性に声をかける。
 「データベースではこの辺りに配架されているはずなんですが、こちらを探してもなかったということであってますか?」
 「はい……周りも一通り探してみたんですがなかったですし、このあたりでその本を使ってる人もいませんし……」
 なるほど、基本的な捜索は彼女自身で既に行っていたということだ。こちらとしては手間が省けてありがたいことだが、目的の本の所在が不明になっていることはほぼ確実と言っていいだろう。
 「となるとその本は所在不明ということになるので、お急ぎで必要であれば捜索依頼をすることになりますが、どうしますか?」
 僕がそう言うと女性はしばらく考え込んだ。レンズ越しの伏し目はどこか初夏の涼風を僕に思い起こさせた。茂った新緑が作り出す濃い影を揺らしていく光景の中に僕は彼女の姿を見つけていた。

 結局彼女は捜索依頼をしなかった。どうしても必要というわけではなさそうだったし、なんとなく彼女は本の捜索に疲れているように見えた。彼女は感謝の言葉を口にし、図書館を去っていった。
 それからしばらくした日の勤務中、カウンターに『×××』が返却された。この図書館では返却の際には特に手続きは要らず、カウンターの所定の場所に本を置いておけばいい形になっていた。職員がその場に居合わせていれば直接本を受け取るし、置かれている本を見つけた時には適宜回収して返却処理を行う。
 僕がカウンターに返却された『×××』に気づいたのは、ちょうどその利用者が背を向けて図書館を出ていくところだった。その後ろ姿は間違いなくあの女性だった。僕は突然のことに驚き、ただその姿を見送るしかなかった。そして、何もできないでいる自分にわずかばかりの苛立ちと焦りを覚えていた。本が見つかったことを喜ぶ言葉をかけたかったのかもしれないが、今とはなっては判然としない。
 返却された『×××』は、別の職員によって書架に戻された。

 時たま僕は、自分の求める本を探している途中で『×××』がある書架を見に行きたくなることがあった。少なくともその本は彼女に貸し出されることになり、そして返却された。その後また誰かが利用しているのか、あるいは誰も利用することなく書架に佇んでいるのか。そこに『×××』はあるかもしれないし、ないかもしれない。だが、その有無を確かめることが僕にはどうしてもできなかった。
 その存在を不確かにしておくことで、あの夜に吹いていた涼風を永遠に自分の中に留めて置けるような気がしてならなかったからだ。

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