年始に思うこと

年始にしては重いこと

仕事が変わって数か月、それまでの知識では追いつかない部分が多くて、毎日あわあわと過ごしている。
引き抜きのような形で声を掛けてもらったので、ここぞと言わんばかりに「体力と精神力が持たないので時短勤務で、かつお賃金が低くないこと」うぃ条件として出したので、週30時間で働いている。
そのはずなのに何故か落ち着かない。何が心を蝕んでいるのか考えることすらできないほど時間がなかった前職。それに比べれば時間的なゆとりはあるし、大きく体調を崩すことは減ったのでストレスフルというわけではない。
でもどこか不安定。考える時間が増えたから不安に感じるのか。

ラジオ感覚で動画や配信をよく流している。一人暮らしなので、テレビをつけなければ人の声が聞こえない。幸運なことに、部屋の隣人も単身のようで、扉や窓の開閉音は聞こえど話し声を聞いたことがない。そもそも顔も見たことがないが。
テレビは映像を見ていないともったいない気がして、最近はもっぱら雑談動画が多い。気になった話があれば戻して確認ができるから便利だ。
好きなコンテンツがあり、応援している人もいる。推し活も推せる範囲で楽しんでいる。休日は行きたい場所に出かけ、気になった新商品を食べたり飲んだりして楽しんでいる。でも部屋で一人でいるとふと思う。
死んだら楽だろうなと。

部屋の更新はいつだったか。貯蓄は、仕事は、結婚は、子どもは、将来は。
見えない未来のことを不安に思いすぎない方が良い。そう知っていても実際にできるかは別。
コロナのせいか、年のせいか、年々体力が落ちている。気力や何かをしようという思いも。あんなに好きだった書くことも辞めてしまった。

先日、知り合いに「私の安全基地はもうないんです」と話した。家族のことだ。両親は一人が私が20代の時に亡くなり、もう一人は生きているけど自身で生きていくのが難しいレベルだ。そんな人が子どもに気を遣うことはできない。そろそろ介護が本格化してくるだろう。
大人になり、実家を出た後でも親を頼りたくなる場面はある。パートナーと喧嘩した、職場の人間関係が上手くいかない、お金のこと。人を頼るということが正しく生きるための方法の一つなのだと、改めて実感できる。私にはそれが欠如している。

周りの大人がきちんと育ててくれなかった。その思いがここ最近強くなっている。そうやって育つと、他人に対しての愛情がなくなる。自分が辛くない、苦しくない所はどこなのか、そればっかり考えている。
この子が困らないように、この人生を「生まれて良かった」と思えるように。どうしてそう願い、行動してくれなかったのか。負の財産を背負わされ、やりたくもない尻拭いをし、生きることに執着はなく、意味を見出せない。どんどんネガティブになっていく。

何かがずっとある。心にしこりが。見えないもやもやが。
消えることはない。それは間違いないく私を構成しているもの。

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