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「好きな食べ物」は難しい

 不本意ながら再び働き始めてしばらく経った頃、同僚から好きな食べ物を問われたことがあった。
 何を食べても美味しく感じる質なので、明確に「これが好き」と言えるものがすぐに思い浮かばない。その場ではとりあえず「うどん」と答えた。昨日の夜に食べたからというだけだが。
 その日、家に帰る道すがら、好きな食べ物ってなんだろうと考えた。記憶を遡って思い浮かんだのは、無職になる直前に食べたマクドナルドのハンバーガーだった。

 仕事を辞めることが決まった日の週末。引越先の内見のために不動産屋に向かった。候補は地域で最安級の家賃の物件ばかりである。しばらく働く気がなかったので、家賃は極限まで減らしたかった。
 食費も当然減らしたいと思っていた。仕事を辞める数か月前から、どれだけ食費を減らして生きていけるかを試していたので、外食はほとんどしていなかった。

 電車を乗り継ぎ、昼前に不動産屋のある最寄駅に着いた。改札を出る。ごみごみした、猥雑な町だった。不動産屋を訪問する時間が十三時だったので、しばらく時間があった。
 朝食を食べてこなかったので空腹ではあるが、これから無職になる身である。外食で余計な出費はしたくないと初めは考えたが、今後おそらく外食する機会はそうそうないだろう。だとしたら外食をしてもいいのではないかと思い直した。

 なにを食べようか考えながら駅前を散策する。ラーメン屋。そば屋。寿司屋。中華料理屋。なにか違う気がする。

 駅前を一回りして戻って来るとマクドナルドがあることに気付いた。最後にマクドナルドでハンバーガーを食べたのはいつだろうか。ひょっとすると学生時代ぶりかもしれない。コーヒーを買うことはたまにあったが、それも随分昔の気がする。そんなことを思い出していたら、マクドナルドのハンバーガーを食べたくなってきた。私は店の自動ドアをくぐった。
 
 昼時なので、店内は混んでいた。注文しようとレジに並ぶ。並んでいるときに周りを見ると、機械端末でも注文できるようだと気付いた。マクドナルドも随分変わったようだ。完全に浦島太郎状態である。

 メニューもよく分からないので、待っている間にネットでメニューを調べる。知らないハンバーガーがたくさんあった。エッグチーズバーガーのセットに決めた。表記がエグチ(エッグチーズバーガー)となっていたが、それくらい省略するなと思った。
 
 やっと順番が回ってきたので、エッグチーズバーガーのセット(ポテトとアイスコーヒー)を注文した。
 レジ担当はおそらく高校生であろう、慣れない様子であったが懸命に仕事をこなしているように見えた。立ちっぱなしで大変だろうなあ、貧血気味の私にはしんどそうな仕事だなと思った。
 じゃあどんなことならお前はやれるんだと自分で突っ込む。わからない。当時の私はとりあえず「なにもやらない」ということを望んでいた。

 「おまたせしましたー」 いつの間にか用意できたようで、トレーを渡される。作り置きがあったのだろうか。提供がとても早い。2階の席に向かう。

 2階はたくさんの席があったが、テーブル席は埋まっていたので、窓際の外を眺めることができるカウンター席に座った。冷たく、安っぽいテーブルと椅子。そうそう、こんな感じだったよなあと、昔を思い出す。周りは高校生や大学生くらいの年代が多かったが、疲れていそうなスーツ姿の男性もちらほら見受けられた。
 正直、今の自分にはうるさすぎる環境で少し後悔した。野卑な笑い声や甲高い奇声。よくこんな環境で本を読んだりできたなと思った。
 
 早く食べてしまおうと、私はハンバーガーの包みを開き、かぶりつく。
 うまいなあと思った。マクドナルドってこんなに美味しかっただろうか。肉とケチャップとピクルス、卵などが混然一体となっていてとても美味しい。宣伝用の写真のように高さはなく、ぺたんこであるが、それがいい。
 フライドポテトも美味しい。揚げすぎてちょっと固くなった部分でさえ美味しく感じた。
 
 周りの騒音が気にならなくなっていた。

 夢中で食べていたらあっという間に完食してしまった。アイスコーヒーを飲みながら、余韻に浸っていた。
 包み紙や紙コップをゴミ箱に入れ、トレーを返却した私は店の外に出た。いい気分だった。

〇 

 今は再び働き始めたので、思い立ったらマクドナルドでハンバーガーを食べることができるくらいの収入は得られるようにはなった。私は再びマクドナルドへ行って同じセットを注文して食べてみた。おいしいと感じるのだが、あの時のような感動はなかった。おまけに胃もたれして気持ち悪くなる始末だった。
 「空腹が最高のスパイス」とはよく言ったものだと腹の底から感じた。ただ、あの時食べたマクドナルドは最高に美味しかった、それははっきり言える。


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