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夜のミステリー「地獄送り」

 雨がしとしと路面を濡らすせいか、足元から冷気が這いのぼってくる。とら吉はぶるっと身を震わせ天を仰いだ。でんでら雲の深いところで雷鳴が響くのを幾度も耳にしているが、閃光はまだずっと遠い。

 ふと、背後に気配が立った。とら吉はつい、鼻息を漏らした。目前に横たわる道路を、車がびゅうんと走り去る。

「今日はまた、ずいぶん粘りますねえ」

 またおまえか―――と、とら吉は心のなかで言った。

「そんなところで待っていても、ご主人は帰ってきませんよ?」

 うるさいやつ、あっちへいってろ!

「冷たいなあ。でも、僕は別に、あなたに会いにここへ来ているわけではありません」

 とら吉は振りかえった。叢のかげに長身痩躯の男が一人……紬着物に高足下駄という古風な装いで、紅色の蛇の目傘を差し、すうっと背筋を伸ばし立っている。年の頃は三十半ばというところか。女のように肌が白く、細面の優しげな顔立ちで、いつもの柔和な笑みを浮かべている。一見、親しみやすい空気を醸してはいるが、とら吉はこの男が苦手だった。どうも、何を考えているのかさっぱり分からないのだ。それに、いつも傍らにいるあの黒猫。

 おれを睨んできやがる……不気味なやつだ。

 黒猫は、黄色い眼をしている。何もかもを見透かすような、大きな瞳だった。あの眼に見つめられると、とら吉は腹の奥がひやりとするのを感じた。今もそうだ―――耐え切れず、ぱっと目を逸らす。いや、絡めとられていた視線の糸を断ち切ったという方が正しいかもしれない。

 とら吉はため息をつく。いつの頃からだったか、とにかく男はもうずいぶん前から、こうして邪魔をしにやってくる。それから決まって話しかけてくるのだが、うっとうしいのは初めのちょこっとだけで、黙っていればそのうち居なくなるというのが常だった。

 どれくらいの時間が過ぎたのか……車が何度も行き過ぎるのを見送っているが、まだ〈アレ〉はこない。

「にしても、あなたも強情ですねえ。さっさと諦めてしまえばいいのに」

 尖った耳がぴくんと動く―――無視しようと思っても、ろうろうと響く男の声は雨に遮られることもなく、奇妙なほどはっきり、とら吉の鼓膜に届いた。

「けれどまあ、待った甲斐がありましたね。あなたの苦労が、ようやく報われそうだ」

 男の声が一段と低くなったことに、とら吉は気づかなかった。それどころではない、道路の向こうから〈アレ〉がやってくる―――すっくと腰を上げたとら吉は、霧にさえぎられた視界の一点を睨んだ。

 いま雨が止んだ、という瞬間だった。

 霧が布のごとく膨らみ、それを突き破るようにして巨大なトラックが飛び出してきた。

「グオオオオオ――――――ン!」

 とら吉が歯をむき出しにして猛然と走り出す。主との懐かしい日々を思い出しながら―――散歩の帰り道で、主は見知らぬ男に無理やり連れて行かれてしまった。とら吉は腹を蹴られ、地面にうずくまったまま身動きができず、主が泣き叫ぶ姿をただ見ているしかなかった。それから主は帰ってこない。犯人は消えた。もう十数年が経った。とら吉もすっかり老いてしまった。

 けれど。

 主をさらった犯人の顔だけは覚えていた。まだ子犬だったとら吉は、この十数年間、その記憶だけを頼りに、毎日ここで見張り続けてきたのだ。主が連れ去られた、この場所で―――。

 ドンッという鈍い音とともに、とら吉の体は弾かれた。一瞬後、アスファルトの上に叩きつけられる。ブレーキの音がして、男の駆け寄ってくる気配がした。とら吉はなんとか目を開けた。

 そばに立った男は、とら吉を見下ろすなり、ちっと舌打ちをして吐き捨てた。

「なんだ犬じゃねえかよ、ったくビビらせやがって」

 唾を吐き去っていく男の後ろ姿に、とら吉は「グルルル……」と低く呻いた。体が動かない。せめて首がちぎれていれば、顔だけで食らいついてやったのに。

「まだまだ。お愉しみはこれからですよ」

 ぞっとする低い声―――とら吉の体のそばに、そっと蛇の目傘が置かれる。そうこうする間に男がトラックに乗り、ふたたびエンジンをふかす音がし始めた。ああ、逃がしてしまう、おれは主の仇を打てずに死ぬのか……。

「とら吉。あれをごらん」

 男が言うので、とら吉はなんとか首をもたげた。トラックが進む先に、見たこともないほど大きな、朱塗りの門が出現している。それは道路の幅いっぱいに口をあけて、向かってくるトラックを真っ暗な闇に迎え入れようとしていた。

 とら吉は、あっと息を呑んだ。見たのだ……闇の中に、赤い目玉が無数にまたたくのを。

「ひっ……ぎゃああああああああああああああああ!」

 男を乗せたトラックはまっすぐ門の中へ突っこんだ。さんざめく笑い声が、どこからともなく聞こえてくる。門はすべての霧を吸い込むと、地響きのような音を立ててその口を閉じた。

 気がつくと青空が広がっていた。とら吉はむくりと起き上った。足元には、みじめな己の亡骸があった。

「とら吉」

 懐かしい声に、はっと顔を上げていた。道路の向こうに、十歳ほどの少女が両手を広げて立っている。

「とら吉、おいで!」

 とら吉の目に涙があふれ、気づいたときには駆け出していた。とら吉は喜びの声をあげて、その腕へ飛び込んだ―――瞬間、二人の体は光に包まれ、景色にすうっと溶けて消えた。後には、虹のような光の粒が、きらきらと太陽の光を反射していた。

「これでよかったんですか」

 着物の袖に両手を差し入れ、満足そうに微笑んでいる男の足元に、黒猫が近づいてきた。

「いいもなにも。お前は一体、人を殺めて地獄に堕ちるのと、最愛の人と再会できるのと、どちらがいいと思うんだい?」

「どちらでも構いやしませんよ。ただ毎度あなたのすることは、エゴだと思いますがね」

「厳しいねえ」

 男は参ったという風に苦笑いをする。黒猫はすらりとした尻尾を向けて、叢の方へ向かいながら言った。

「油売ってる暇ぁないですよ旦那。この世にゃまだまだ面倒くせえ仕事があるんです。旦那がそんな、他愛もない事柄にいちいち関わっていちゃあ、地獄送りの名が泣きますぜ」

「はいはい、分かってますってば」

 男は蛇の目傘を拾おうとして……やめた。こんな小さな身体で、よくがんばったね、とら吉。

「旦那ァ! なぁにモタモタしてんですか!」

「いま行きますよ」

 颯爽と歩きだす男の背中を、少女と犬が見送っていた。


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