サブリミナルME TOO によって蝕まれてしまった私達

しばらくは、SNS(ほぼツイッター)の話です。

予め言っておくとSNSの批判じゃないです。
SNSは時代そのものです。
時代そのものを、その時代に生きる人間が壊すことはできないので。

このテーマについて、最初は

最近「弱き声」が「強き者」になりすぎじゃない?もはや「怪物」だよね 

 って話です。

助けを呼びたい人が助けを呼んで、本来は届かない声を届ける SNSの役割の1つだ。

ただ、「弱いから私たちは正義だ」「力のあるものは淘汰されて然るべき」っていう前提が生まれつつある。
というか、昔々からあったんだけど、「賛同者(いいね)」の可視化と「個人が持つ経済的価値」が組み合わさって力が強くなりすぎてしまった。
さらにそこに、
「出る杭は叩く」「同調圧力」といった習性的なものが混ざり、
仕上げに「匿名の世界で赤信号をみんなで渡れば全然怖くない」という環境がトドメを刺してしまった。
一人一人が教祖になり得るこの世界で取り締まるには、刑務所も警察も裁判官も力不足なのである。

そして、SNS世界ではいいねの数が正しさの根拠になってしまった。

いいねの数が多い方が正しい。そういう認識はだんだんと慣れになって刷り込まれ、中身を読まなくても無意識のうちに正しいか正しくないか判断するようになった。

現に私自身、こんな正しさの実感は間違っているとわかっているのに、無意識のうちにツイートの反響から勝手に正しいと感じてしまう瞬間がある。

これが、サブリミナルME TOOだ。

SNSはここに「自分がオリジナルの発言だという誤った認識」を持った「投稿」という行為がある。
実は、無意識の刷り込みによって生み出された「他者の意見」が、さも自分発信の意見かのように思い込んでいるのである。

私も、「なんで自分がこういう意見を主張するようになったのか」を時折考えるようにしないと、自分の存在の根拠も文化に生きる人間らしさも消えて、みんなただ番号が違うだけになってしまうのではないか。そんな気がしてしまう。

次はもっと気楽な文章で、まだこのお題は続きます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?