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『生きることの意味なんて考えない方が良い』のか

『生きることに意味はあるのか?』というのは、恐らく多くの人の頭に一度は浮かんだことがあり、それでいながらほとんどの場合真正面から取り組まれることのない問いだ。

この問いは投げかけられる回数の多さとは対照的に、誰もが納得のいくような答えが提示される回数は極端に少ない。

もちろん、別に誰かが悪いということではないのだが、一般論として、誰かに『Aの意味は何ですか』と尋ねた時に、『Aの意味なんて誰も知らないし、そんなこと考えても仕方がないです』という答えが返ってくれば、(仮にそれがどれだけ愛情や気遣いに満ちたやり取りであったとしても)自分の問いの答えは得られていない、と感じるのは当然と言えば当然だろう。

ではなぜ、このようなやり取りが多く発生するのかと言えば、それは非常にシンプルで、誰も真正面からこの問いに答えることができないからだ。

さらにもう一歩踏み込んで言ってしまえば、なぜ誰もこの問いと真正面から向かい合えないのかといえば、それは『生きる意味なんて存在しない』からだ。

意味があるとは

そもそも『生きることに意味がある』というのは一体どのような状態を指すのだろう?

とある行動や物事に対する姿勢、あり方に対してそれは『意味がある』という場合に、我々は通常何を意図しているだろうか。

サッカーをすることには意味がある。
人に親切にすることには意味がある。
本を読むことには意味がある。
ダイエットには意味がある。
毎日ジョギングをすることには意味がある。

さて、これらの『意味がある』というのは何を意味しているのだろう?

例えば、とある人が出来る限り長い期間健康に生き続けることを目指しているとしよう。その場合恐らくサッカーをすること(やりすぎは逆に健康を害してしまうかもしれないが)や、ダイエット、ジョギングは意味があると恐らくいえるだろう。

もし別の人が、人生において、自分が楽しいと感じる時間の割合をできる限り増やすことを目指しているのであれば、読むことに意味がある本もあるだろうし、そうでもない本もあるだろう。サッカーが好きなのであればサッカーがすることにも意味があるはずだ。

毎日食べていたお菓子を我慢することはあまり楽しくないかもしれないが、それが友人との3泊4日の資金をねん出するためなのであれば、それも意味があるのかもしれない。

全く美味しくない健康食品を食べることは、食べることを楽しみだと捉える人にとっては意味のない行為となるだろうが、食べることを健康維持の手段と捉えるならば大いに意味のあることとなるだろう。

基本的に我々が何かに『意味がある』という場合、それは更に上流に位置する何かしらの目的や求めるものがあり、それの達成に貢献するかどうか、という物差しで判断されている。

意味だけは独立して存在しうるのか

何かしらの目的や目指すものAに対してではない形で、何かに意味が存在することはあるのだろうか?というか、言葉の定義上、そのような状態はありうるだろうか?

もちろん論理や哲学の専門家はまた違った見解を示すかもしれないが、個人的には、そのようなものは存在しないのではないかと思っている。

何からも独立した『意味』が中空に浮いているような状態をイメージするのは難しい。

『食べることって意味があるんですか?』『歩くことって意味があるんですか?』『手を挙げることに意味があるんですか?』と突然聞かれても、答えに窮してしまうのは当然と言えば当然だろう。

それは人によるだろうし、全世界の誰にとっても『走る』ことに意味があるのか?というのが問いかけの意図なのだとしたら、そうとは限らない、というかそれはそもそも不毛な質問のように思われる。

『"横断歩道を渡る際に"手を挙げることは意味があるのか?』という問いに『車の運転手が横断してる人をより見やすくなる』ので意味があります、と答えることは出来るし、『車の運転手が横断してる人を見やすくなることには何の意味があるのですか?』という問いに『事故に遭う確率が減るのであなたが生きていられる可能性が高まります』と答えることは出来る。

だが、これも結局『では、生きていることに何の意味があるのですか?』という問いにたどり着いてしまえば『え、でも生きていたくないですか?』と問い返すくらいしか出来なくなり、もし『生きていたくないですね』という返答が返ってくるのであれば、『では意味はないですね』ということになる。

同様に、いかなる選択や行動も、ずっと意味のチェーンを辿って行けば、いずれ意味の参照先がなくなってしまい『楽しいことは意味がありますよね』『善いことは意味がありますよね』のように、そんなことは意味の参照先を探すまでもなく、全人類共通で、意味があると感じますよね?という参照先不在の前提にたどりついてしまうのだ。

そして、これらは『厳密には正解であるという保証はないが、正解ではないと仮定して何かしらを考えても仕方がないですよね?だって生きていたいですよね?楽しい方がいいですよね?』的な、論理や経験則を超えた、ある種リープオブフェイス的な前提に基づいている。

したがって、例えば『楽しむこと(別にこの部分は何だっていいわけだが)に意味がある』という前提が共有されているのであれば、当然『生きることには意味がある』ということになるだろう。なぜなら、人生は楽しみを感じるための器であり、生きていなければいかなる楽しみも発生し得ないからだ。

生きる意味とは?に対する答え

だが、多くの場合我々が『生きていることに意味があるのか?』と問う際に聞きたいことはそういう話ではない。

私は生きていたくない、生きていくのがつらい、あるいは少なくとも何かしらの形でなぜ生きていくべきなのかに対して疑問を抱いている、それなのに、生きているということ自体に、私の人生で起きている出来事を個別にみていったものの総計を上回るような、それを否定して上書きできるような意味があるんですか?という意図の場合が多いだろう。

そして、端的に言ってしまえば、そのような『生きているの意味』などないのだ(もちろんそれは必ずしも『生きていても仕方がない』ことと同じではないが)。

本題

さてここからが本題なのだが、僕が思うに、この世界には『"生きることに意味がない"という事実に対して打ちひしがれてしまったり、その事実の重みを受け止められるかられないかのギリギリの境界線を歩く人』が一定数いる。

もちろん、特にそれを意にかけない人もいる。別にどちらが良いとか悪いとか、そういう話ではない。

そして、そう考えると『生きる意味はあるんですか?』『生きる意味は何ですか?』という質問に対して『そんなことは気にしても仕方ない、考えない方がいい』と返すのはある程度理に適ってはいる。

なぜなら、真摯に答えようとすれば、生きる意味なんてない、という答えにたどり着かざるを得ず、そして、その問いを投げかけている人は恐らく、その答えに打ちのめされてしまわざるを得ないからだ。

ただ一方で、僕らが求めているのは答えであり、どうしようもなく切実に答えを求めている問いかけに対して、そんな質問はしても仕方がない、答えなんて存在しないのだから忘れなさい、と回答されるのは『NO』という回答が返ってくるのとほとんど同じくらい悲しく、やりきれないことだ。

もちろん100%はわからないが、恐らく、冒頭のツイートで紹介されている女性も同じように感じたのではないだろうか。

上の投稿を見かけ、この女性や同じような問いをずっと抱えていた十数年前の自分から同じことを聞かれたら一体何と答えるだろうか?という思いを巡らし、今回の記事を書くに至ったのだが、今の僕であれば、以下のようなことを伝えるのではないかと思う:


『生きる意味はあるのか?生きる意味は何?』と聞かれれば、生きる意味なんてない、あるいは少なくともわからない、と答えるしかない。でも僕は、その事実に非常に心をかき乱されているし、打ちひしがれている。生きる意味なんて存在しないように見えるのに、なぜ生きていかなくてはならないんだろう?というのも常に考えている。

だからこそ、あなたが生きていることに意味があるんだよ、と軽々しく断言することは出来ない。でも少なくとも、人生に意味なんて存在しない、という事実を恐れたり、理不尽だと思ったりするのはおかしなことでは別にないと思う。人生の意味とは?という問いを抱くのも当然だし、明確な答えが存在しない中特にそれを気にせず(あるいは少なくとも外から見る限りは気にしていないように見える)生きていくことのできる人たちを見て羨ましく思うのも、おかしなことではないよ。


少なくとも、僕自身は、(何なら今も)人生の意味なんて考えても仕方ない、そんなことを口に出して問うのは良識的な大人のすることではない、そんなことは忘れましょう、という考え方は少々不思議(なんといっても、実際に僕らが生きているのは逃れようのない事実なのだから)であるように感じている。

そして、『生きることに何の意味があるのですか?』という問いは、時として叙述的/反語的な問いにしか過ぎず、私には生きていることに意味がないようにしか思えないが、なぜ皆そんなに平然と生きていられるのですか?というフラストレーションや行き場のない悲しさの表明であることもあるように思える。

もちろん、仮にそうだったとしても、僕が上にあげた回答はどちらにせよ全く答えになっていない。

そして、断るまでもないと思うが、鬱であるにせよ、どういった事情があるにせよ、人の人生に対する絶望は唯一的なものだ。僕がこのように感じたからと言って、他の同じような問いを投げかけている人が同じように感じるのかは全くわからない。もしかすると、こんなことを言われたって全く救いにならない、という人もいるだろう。

答えられないくせに、同じ空虚さを共有している、同じ問いを抱えている、同じ絶望を内にはらんでいる、と寄り添ったふりをすることは単なる偽善的な姿勢ではないか、と憎しみを覚えられてしまったりもするのだろうか?

それはわからないし、もしも彼や彼女が『生きる意味はない』という割に、それでもお前は生きているのではないか、それはなぜなのだ?と重ねて問うたとしたら、残念ながら僕はそれに対する答えを持ち合わせていない。

ただそれでも、冒頭の投稿内に出てくる女性が『生きる意味は何なのか?』という問いに対して『生きる意味なんて考えない方がいい』という旨の回答を聞いて、いかに絶望したが僕には痛いほどよくわかった(と少なくとも感じた)。

別にこういった答えを提示する人を責める気持ちは昔の僕だって全くなかったし、これからもないのだが、単に『生きる意味とは何か?』という問いに対して『それは問わないものとする、問わない方がハッピーだから、人生楽しい方が良いような気がするし、この質問は考えない方が楽しい気がするから』という回答を解決策として提示したり、納得したりする、というのは、もはや異次元の言葉のように聞こえるというか、人生の意味とは何か?と悩み続ける人(あるいはそういった状態にある人)にとってなぜこの問いに絶望的なほど切実に、思い悩まずにいられるのか、それは、到底理解できないことなのだ。

そして、程度の差こそあれ、これはある程度経験したことのある人が存在する出来事なのではないかと思った。この回答は実際に世の中にあふれているものだからだ。

だからこそ(とはいってもこれに何か有形的な意味があるのかはよくわからないが)、この世界には、いまだに生きる意味があるのかないのか、ということに思い悩み、どうやら生きる意味なんてものはなさそうだ、と感じられ始められるにつれ、その事実に打ちひしがれている人間が少なくとも1人(というか僕の推測がとんでもなく的外れなものでない限りは、もっとずっと多くの人)はいる、というのを文章に残しておくのも悪くない気がした。




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