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命に値札をつける

今日、フランス人の友人と話していた時に『人の命にはいくらの値札がついているのか』というなかなか興味深い話が議題に上がった(というか、僕が持ち出したのだが)

彼は来年のどこかあたりで日本への旅行を計画していたのだが、日本の外国人の入国制限の行方が不透明なことを嘆いていたのだった。

コロナと経済

彼の意見としては『もう多くの国ではコロナの死亡率はただの風邪と同じくらいにまで下がっている。観光業はGDPの7%を占めているし、ただの風邪で経済をシャットダウンするわけにはいかないだろう』というものだった。

今回の記事では、その是非について論じるつもりはないし、彼の主張や入国制限の是非、コロナ対策と経済の兼ね合いの最適な割合などなどは本筋ではないので、一旦脇に置いておく。それらについては、特に何かをこの場で主張するつもりはない。

ただ、それを聞いた時に僕が真っ先に思ったのは『これらの問いに答えを出すためには、命に値札をつける必要があるな』ということだった。

もちろんコロナは新しい感染症でまだわかっていないことも多いし、死亡率なども変異株の影響などによって変動し、その感染拡大/収縮には非常に様々な要因が絡み合っている。したがって、現実的にはその動向やどれくらい人類へ健康の影響を与えるか(後遺症などもある)を高精度で予測するのは非常に難しい。

しかし、理論上はそれは不可能ではないはずだし、例えば政府の政策決定の場などでは、どれだけ不確定要素が多かったとしても『まあ結局はふたを開けてみないとわかりませんね』では済ますことはできないはずだし、何かしらの仮説が必要となるはずだ。

例えば、策Aであれば、感染者の増加は〇〇、結果として予想される死者は〇〇人減少しますが、〇〇業界の経済には〇〇%の影響を与えます。

といったように。あるいは別の策Bであれば、感染はあまり抑えられないが、経済的な影響は最低限にとどめられる、といったように

もちろん、実際には話はここまで単純ではなく、例えば経済的に困窮する家庭が増えれば、その分自殺者だって増えるかもしれない。

だが、現実を結果論的に振り返ることが出来るのであれば、〇〇〇円の経済損失と引き換えに、〇〇人の死者を減らすことが出来た、という計算はやはり理論上可能なはずだ。

1人を救うのにいくらのコストをかけるべきか

もちろん、人の値札に正解などはないのだろう。

コロナで家族を亡くした人であれば、全てシャットダウンし、経済全てを犠牲にしてでも感染が防げていれば、と願うかもしれないし、自分が死ぬまでは外れくじを引かない可能性にかけ、死んだら死んだでそこまで、最大限これまでと変わりない人生を送りたい、という人だっているかもしれない。

建前としてはよく聞かれるものではあるが、人ひとりの命はお金では測れない価値があるので、一人の死者を減らせるのであれば、全てを犠牲にすべきだ、という主張は少し無理があるようには感じるが、出来なくはないし、逆に数千円で防げる命も救う必要はない、という道徳的に賛同が得られないであろう主張も不可能ではない。

それらの両極端のどこに位置する主張であれ、科学的な根拠は見つけられないのだ(死ぬかもしれない人が生涯において生産すると期待できる富に応じて命の値段を決定する、という手法は論理的には可能だが、そうすると今度はでは今後ずっと年金生活を送るであろう高齢者を救っても意味がない、逆にグーグルの社長は何千億かかろうとも救うべきではないか、などといったまた別の道徳的迷路へと迷い込んでしまうことになるだろう)

既に命に値札はついている

ただ、ここで僕が強調したいのはこれは、人類がコロナ禍に新たに直面した問題ではない、という点だ。

確かマイケル・サンデルの本の中でも同じような内容があったと記憶しているが、人類はコロナにぶつかり、突如として生命に何円の価値があるかを試算する必要性に直面したわけではない。

現代では、というかかなり前から、既に命に値札はついている。

我々がわざわざ意識的には命にいくらの価値がある、のようには考えはしない、というだけのことだ。

僕が思うその最たる例は自動車だ。

日本では、年によるが、年間数千人~1万人程度の人が交通事故で死亡している。もちろん技術の進歩や法律の改正などにより、その数は少しずつ減少しているが、この年間数千人という死者数を受け入れられざるものである、と日本人の大多数が考えるのであれば、もっと明快かつ容易、根本的な解決策が存在する。

そう、単に車を無くしてしまえばいいのだ。法律で車の所有や使用や違法にしてしまえばいい。生活はとんでもなく不便になるだろうし、経済的な損失は計り知れないだろうが。

もちろん、緊急車両がないとその分死者が増えたり、といったこともあるかもしれないので例えば緊急車両のみはOKにするとか、田舎では車がなくとも最低限の生活は出来るように、週数回程度、徒歩で最寄りの鉄道駅などから物資を配る仕組みを整備するなど、様々な調整は必要だろうが、もし経済的なコストに糸目をつけなくてよく、生死に関わらない不便さを無制限に受け入れるのであれば、やって出来ないことはないはずだ。

だがそれが実現することは恐らくないだろうし、もし誰か政治家が交通事故撲滅を目指し、車の全廃を公約に掲げて出馬しても、当選はしないだろう。

ということはつまり、我々は無意識のうちに、便利さや富の創出と引き換えに、ある程度人の命を犠牲にしてもかまわない、それが自らの身に降りかかる可能性がある(当然ながら、車を自分で運転しない、という選択は出来るが、車が自分に突っ込んでこないことを選択する、ということはできないのだから)ことであっても、多少のリスクは目をつむっているのだ。

まとめ

誤解されると嫌なので、もう一度言っておくが、別に僕は巷に溢れる『コロナを恐れすぎている、経済を回さなくては』みたいなことを言いたいわけではない。

正直に言えば、僕は自分の人生という範疇で言えば、経済面の貧富も生死も、そのどちらに対しても特に強い関心を抱いていない。

ただ、こういった問題を考える際に『人の命をお金で測るなんて』という問答無用の拒否感のようなものを抱くのは、すでに現実問題として、僕らの生きる社会が人命に値札を日常的に貼り付けている以上、奇妙な態度だと思うし、一方で、では『コロナ対策はほどほどにして経済を回せ』という人々が仮に『自分の死のリスクが〇%上がるが人生における利便性と楽しみが〇上がり、年収が〇円上がる』という計算を冷静にこなせているとも思えない。

現在はコロナの死亡率は落ち着いてきているようではあるが、例えば今後突如として変貌を遂げ、対策が定まるまでの間に何万人もの死者が出てしまう可能性だってあるだろう。

では実際にもしそのような事態になり、自分が外れくじを引く側に回り、命の危機に瀕した場合に、そういった人々は『これは自分が受け入れたリスクだからやむなし』と考えるのだろうか?というとそういうわけではなく『コロナを甘く見ていた、もっと人命優先の対策が必要だった』と後悔しそうな気もする。

なので、僕は別にどちらかの側に立ちたいわけではない。

便利さや富と人命を天秤にかけ、ある程度以上の度合いの便利さや富のために人の命を犠牲にする(そんな風に実際に意識してはいないにしても、だ)という行為は特に目新しいものではなく、人類がごく日常的に行っているものではないか?と思ったので指摘しておきたかっただけだ。

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